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『構造構成主義とは何か』を「技」として使うには


「あなたの話を誰も聞いてくれないのは、その話をしているのがあなただからです」

今の私が師と仰いでいる方に初めてお会いしたときに言われた言葉がこれでした。

正しいことを言っているのに、だれも私の話を聞いてくれない。そんな不満を抱えていた数年前の私が、初めてお会いしたその方に「正しいことを言っているのに…」と問うた時の答えが冒頭の言葉で、私はそれ以降、「悪いのは話を聞いてくれない相手ではなく、話をしている私なのだというところまではわかったけれど、じゃあいったいどうしたらいいの?」と考え続け、学び続けてきました。

あれから数年が経ち、今の私はどうしたら(どういう時に)話を聞いてもらえるかを、ようやく知ることができています。

「人は聞きたいときに聞きたいことだけを聞く」「基本的に人は他人の話を聞きたくない」。

求められていない時に、求められていないことを話してもしょうがないのです。私が話したいと思った時に話す言葉は、よほどのことがない限り誰にも聞いてもらえません。基本的には、ご縁があって自分の目の前にいてくれる人と笑顔で挨拶を交わし、「今日こんなことがあってね」などと軽く話し始めること以外に、「話を聞いてもらえる入口」に立つ手段はないのです。

だいぶ話が脱線してしまいましたが、『構造構成主義とは何か』を出来るだけ平たい言葉で、自分なりにまとめてみようと章立てを考えたときに思い出したのが、このエピソードでした。

この本には、例えば何か解決すべき課題があるとき、「その解決策を編み出す議論をすること」には意味があるが、一方で「俺様こそ正しいのだから、俺の意見を聞け」と言い張ることには何の意味もない(周囲との軋轢を生むだけで何の意味もなさない)ということが論理的に丁寧に書かれてあります。「正しいことを言っていればみんなが話を聞いてくれるわけではない」のはなぜか、その仕組みが書かれてあるのです。

そして、どうしたらその無意味な軋轢を避けうるかについての有効な方法(ものの見方)もこの本には書かれてあります。なお、この方法は「いつでもどこでもだれとでも仲良し」になる方法ではなく(そもそもそんな方法などない)、あくまで無意味な軋轢を避ける上での有効な方法の一つに過ぎない(でもかなり有効であることは間違いない)わけですが、なぜ「いつでもどこでもだれとでも」が成り立たないのか、そんな中でこの本に書かれてある「ものの見方」が有効に機能しうるのは特にどういう場面なのかについても、論理的かつ丁寧な説明があります。

1 正しいのは(あるいは力を持っているのは)誰だ選手権を開いても、しょうがなくね?


この本が刊行された2005年当時、著者の西條さんは「多様な学問領域を包括している総合領域」を志向する「人間科学」領域での研究者としていらっしゃっり、そのためにこの本は、「多様な学問領域を包括している総合領域」を志向しているはずの場においてなぜそれがなされないのだろうという疑問を出発点に展開されています。

私は「人間科学」の学者でもなんでもない、日本の地方都市で働く一社会人に過ぎないので、こうした学問領域がいかなる理論を備えるべきかということに差し迫った関心はないのですが、一社会人であるからこそ、「多様な人とうまいことやっていく」技は身につけたいと思っています。よって以下は、「多様な人とうまいことやっていく」のに使えそうな技をこの本から拾い取ってまとめたものになりますので、ご了承ください。

さて、私がこの本の「拾い取り」の重要なポイントと考えたのはまず「正しいのは(あるいは力を持っているのは)誰だ選手権を開いても、しょうがなくね?」ということでした。

なぜこの「選手権」がしょうがないものになるのか。これに関してまずこの本の3章には、竹田青嗣さんの次のような論考が紹介されています。それは、「Aの人が世界観Aを正しいものとして持ち、Bの人が世界観Bを正しい世界観だとする信念を持っているとき、 Aはどのように考えるか」を考えられる限り洗い出してみようとするものなのですが、ここでは次の①から③の考え方が示されています。

① どれかが正しいとする思考パターンをAが持っている時にはAはBが間違っているとしか思えない。

② AもBも間違っているけれどどこかに正しい考えがあるという思考パターンを持つ場合にも、Aは「自分の方がたった一つの正解に近くて、Bは間違っている」としか思えない。

③ Aが「正しい世界観などない、強力な世界観があるだけだ」という信念を持っている場合には、自分の考えが正しいかどうかなんて関係なくなり、とにかくBを力でねじ伏せさえすればいいとする結果になる。


この論考は、相手が間違っているという前提のもとに議論が行われると建設的な展開にはならないということをわかりやすく伝えるものです。

そしてこの本では、こうした事態を防ぐ方法として、「A(B)こそ正しい学問だと思っているけれども、それはまあいったん置いておこう」とひとまず考えておくこと、その上で「Aこそ正しい学問だという確信がなぜどのような経験により生じてきたのかを問う」ことが有効だということが紹介されています。

加えてもう一つの大事なポイントとして、この本では、「人の考え」というものがそれぞれの経験によって個別に、各自の頭の中で密かに自動的に作られていることを指摘しています。例えば、この本の5章には人が親などから言葉を習い覚える時の3つの特徴として、

① 必ず「それは○○とは違う(それはワンワンじゃなくてニャンニャンなのよ)」といった具合に、あるものとの比較の形で習得されること、

② 親などから「恣意的に(教える人と教わる人それぞれのその時の状況や解釈に応じてしなやかに)」教わるものであること、

そしてその「恣意性」のために、
③ 実は他人とは違う形でその言葉を理解している(目で見て指で指して確認し合うことができるものについては周囲との理解を合わせることができるが、目で見ることができない概念のようなものについては、お互いの理解をすりあわせることが実は難しい)

ということが挙げられているのですが、自分が何かを「正しい」と考えるプロセスにもこうした言葉の習い覚えと同じ構造があるということが書かれてあるのです。

つまり、人というのは普通にしていると、「俺がお前の言うことを間違いだと思う、それはすなわちお前が間違っているからに他ならない」と考えるものであり、そんなふうに考えてしまう自分の思考そのものが決して一般的で当たり前なものではないということを忘れてしまうものでもあり、そんな普通の態度のままでいる限り、「おまえが間違えている」「いや、おまえが間違えている」という無意味な軋轢がいつまでも終わらない仕組みになってしまっているわけです。

誰かと一緒に「その解決策を編み出す議論をする」場面において無意味な軋轢を避けるには、相手の善し悪しを決めつけてから話を始めるのではなく、結果はさておき「俺はなんでこいつを間違いだと思うのだろう」「こいつはなんで俺と違う行動をとるんだろう」と考えるところから始めてみる。そうして自分と相手それぞれの「意見に至る文脈」の相似点と相違点を明らかにしてみたのちに、解決策を編み出すという出発点に立ち戻る。そうすると「目的」と「状況」が明らかになり、自ずとよりよい解決策が見えてくる。この本にはこうした方法が提示されているのです。

2 「そもそも」をちゃんと押さえあってる?


「目的」と「状況」が明らかになれば自ずと「方法」が見えてくるというのは言われれば当たり前のことで、「目的」と「状況」を明らかにすることなく「方法」を考えるなどありえないよなと思ってしまうのですが、実際のところ、「目的」と「状況」がないがしろにされ、誰かがかくあるべしと信じる「方法」だけがどんどん先に走ることは、割とよくあることのような気がします。

「目的」と「状況」をないがしろにし、誰かがかくあるべしと信じる「方法」だけをどんどん走らせてしまうことが「無意味な軋轢」につながるということは上の1で述べたとおりなのですが、「正しいのは(あるいは力を持っているのは)誰だ選手権を開いても、しょうがな」いから自分と相手それぞれの「意見に至る文脈」を把握してみようとすることと並ぶ、もう一つの重大なポイントは、「「そもそも」をちゃんと押さえあってる?」ということに尽きると考えています。

つまり、自分と相手それぞれの「意見に至る文脈」という、「状況」に係る重要情報(見ようとしないと見えてこない情報)の把握とともに、「そもそもなにがしたいんだっけ?」を確認し合いきちんと押さえるという、「目的」(実はこれも見ようとしないと見えてこない情報です。)の明確化をしておけば、「自分の考えた正しい方法を実現するのだ」と誰かがつっぱしってしまうこと(及びそれによって発生する「無意味な軋轢」)を防ぐことが出来るのです。

このことについてこの本の4章には、「目的」というのはその人の経験(この本では「関心」という言い方をしています。)の影響を多分に受けながら(この本ではこのことを「関心相関性」と呼んでいます。)その人なりに構築されているということが書かれてあります。つまり、一緒に何かをしていこうとする相手との間で「みんなでこの目的に向かって検討を進めましょう」といった明確なすりあわせがなされないと、個々の抱える目的が各自の経験に根ざしたばらばらなものとして、他人にはわからない形で育まれたまま、誰ともかみ合うことなく(理解し合うことができないまま)すれ違って終わってしまうのです。

自分と相手の関心を知ろうとしないことは、『ONE PIECE』で例えるならログポース(方位磁針)を持たないままグランドライン(磁気だけが行き先を示す世界)を航行するような、別の例えをするなら鵜飼いの鵜に紐をつけずに漁をしようとするような、そうしたことと同じなのだろうなというのが私の理解です。つまりただの「カオス」ですね。カオスのままで「そもそも」を押さえ合うのは、非常に難しい(うっかりしていると正論や権力を振りかざしたくなる)ことだと思います。

3 一つの道具にこだわらないでさ、いろんな道具をうまいこと使い分ければそれでいいじゃん。


冒頭に書いた「正しいことを言っているのにだれも私の話を聞いてくれない、そんな不満を抱えていた数年前の私」はまさにこの「カオス」のただ中にいて、プロジェクトに関わる人たちの関心に着目する技を持たないまま、とにかく「私の正しさ」を懸命に訴え疲弊しきっていたのでした。

「人は聞きたいときに聞きたいことだけを聞く」「基本的に人は他人の話を聞きたくない」。

これは言い換えれば「人は関心のある話なら聞く」「基本的に関心のない話は聞かされたくない」ということに他なりません。これをさらに言い換えるならば、自分と相手の「関心の源流をたどる技」と「目的をすりあわせる技」さえあれば「多様な人とうまいことやっていく」ことができるとも言えるわけで、これに関してこの本から私が読み取ったポイントをひとことで言うと、「一つの道具にこだわらないでさ、いろんな道具をうまいこと使い分ければそれでいいじゃん」ということになります。

「関心の源流をたどる技」と「目的をすりあわせる技」を考えるときに重要になるのは、①この本の6章に書かれてある「自分の外部に客観的世界が実在するという前提」と「われわれは同じ現象から同じ意味を知覚しているという前提」のいずれも措定しないということと、②この本の3章に書かれてある「共通了解の得られやすさはその都度相手との動的な関係から規定される」ということの2点になります。

これらをかいつまんで言うと、①だれにとっても絶対的なたった一つの正解が世界のどこかにきっとあると思い込んだり、自分と同じものを見ている相手も自分と同じことを考えていると思い込んだりすることなく、②相手と顔を合わせて何かを協働しようとするその都度、自分と相手がどのような状況にあるか(関心がどこを向いているか)をできる限り把握・推測し、相手の関心に引っかかるような伝達の仕方を考え試行するということになります。

「関心の源流をたどる技」と「目的をすりあわせる技」は上述のものの見方を備えた試行の営みに他ならない訳ですが、これらの技が具体的にどのようなものであるかについて、この本には記述されていません。それは、「共通了解の得られやすさはその都度相手との動的な関係から規定される」、つまりケースバイケースであってとても全てを書き表すことなどできないからなのです。

ただ、これを結論にしてしまうと「ケースバイケースと言われても、一体どうしたら…」と途方に暮れてしまいますので、この本の11章に書かれてある「自らの関心や目的と照らし合わせていいとこ取りすればよい」という表現や、8章にある「継承」や「条件開示」といった概念についてかいつまんで説明しておきますが、これらの言わんとするところは、「他のことについて説明された理論を比喩的に活用できないか試してみたりすることによって、自分自身と相手がああなるほどと思ってしまうような新たな見立てで課題を捉え直し(こういう事情でこういう課題が生まれ、こういう事情で解決できずにいたのねと、課題の背景・文脈を納得しあうイメージです。)、それによって課題の解決に動き出すこと」と言い換えていいと思います。

4 まとめ


これまでに書いたことをまとめると、「いつでもどこでもだれとでも仲良し」になる技などないけれど、誰かと一緒に「その解決策を編み出す議論をする」場面において、うまいこと使えば「無意味な軋轢」を避けやすくなる技はあるということが言えます。

その技については、

① 「俺はなんでこいつを間違いだと思うのだろう」「こいつはなんで俺と違う行動をとるんだろう」と考えるところから始めることによって、自分と相手それぞれの「意見に至る文脈」の相似点と相違点(=状況)を明らかにするとともに、

「そもそもなにがしたいんだっけ?(=目的)」を確認し合うことでカオスを回避することであり、

だれにとっても絶対的なたった一つの正解が世界のどこかにきっとあると思い込んだり、自分と同じものを見ている相手も自分と同じことを考えていると思い込んだりすることなく

④ 協働しようとする都度、自分と相手がどのような状況にあるか(関心がどこを向いているか)をできる限り把握・推測し直し、相手の関心に引っかかるような伝達の仕方を考え試行する、

⑤ その試行に際しては、他のことについて説明された理論を比喩的に活用できないか試してみたりすることによって、自分自身と相手がああなるほどと思ってしまうような新たな見立てで課題を捉え直し、課題の背景・文脈を納得しあうといったやり方などが考えられる

といった具合にまとめられると考えます。

なおこの技は、私を正論や権力でねじ伏せようとするものの回避には使えません。私と交渉してみようとする相手にしか使えない技です。人の姿をしているからうっかり話し合えばわかり合えるのではないかと思ってしまうのですが、そういうものではないのです。

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