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『ソウルフル・ワールド』とその都度生きていく毎日(※ネタバレあります)

 モヤモヤしています。

 コロナ禍の憂鬱とか、仕事がはかどらないとか、人と会っていないとか、外出もしてないとか、好きなスマホゲームが終了してしまうとか、ストレスはいろいろあるのですが、とにかく「気が晴れない」。

 でも、はたと思いました。私が「気が晴れた」と感じたのっていつだろう、と。
「気が晴れる」というのでもいろいろありますけど、そうだな……「気が軽くなる」とか「気分がすっきりした」とか「開放感を味わう」とか、そんな感じですかね。

 思えばうつ病を患ってから、そんな気分は味わっていないかもしれません。最近は常に「いいことないかなあ」と唱えているのですが、いいことがないわけじゃないんですよ。ちゃんとあるんですよ、いいこと。でも、常に疲労感が私を支配しているので、喜びが持続しないし、疲労を凌駕するというか、吹き飛ばしてはくれない。だから正しくは、「いいことないかなあ」ではなく、「気が晴れないかなあ」と唱えるべきですね。

 そんな時、思い出したのは年末に見た『ソウルフル・ワールド』というピクサーの映画です。

※これ以降、『ソウルフル・ワールド』のネタバレがあります。ご注意ください。

 今のところディズニープラスでしか配信していませんが、多分そのうちDVDとか出るんじゃないかな。

『ソウルフル・ワールド』は、やっとチャンスをつかんだ矢先に不慮の事故に遭い、生死の境の世界をさまようミュージシャンが、生まれることを拒否し続ける魂(ソウル)22番に成り代わって生き返ろうとする物語です。

 この22番、何か好きなことや楽しいと思うことが見つかると押されるスタンプが、なかなか押されない魂なのですよね。何をやっても楽しいと思えず、だったら生まれる前の魂のままでいた方がマシだ、どうせ生まれたら苦労するんだから──と言う。幸せになれないのではないか、不幸になってしまうのではないか、と考えている。好きなことがない自分は、取り柄がない、とも感じているのですよね。

 この「好きなこと」「楽しいこと」、言い換えれば「生きがい」とか「自分らしさ」というもののある種呪いのような部分もちゃんと描いていることも、この『ソウルフル・ワールド』の優れたところです。そういう気持ちは人を輝かせるけど、同時に魂をダークサイドへ引き込む可能性があることも忘れていない。

 今思い出すと、魂22番と現在の自分の状態はずいぶん重なるな、と思ったりします。脳が疲労しているので、今は何をやっても楽しいと思えないところがあるし、常に先行きに不安を抱えている。一つ足を踏み外せば、22番のようにダークサイドに堕ちてしまう危うさもある。(ちなみにネットのうつ病診断みたいなのをやると「うつと健康の境界線」と出ます。病院にも定期的に通っています)

 でも実は『ソウルフル・ワールド』は、「生きがいなんてなくたっていい」という結論に着地するのです。それと「生きること」は、また別物なんだ、と。

 確かにそうなのよね。私も別に「毎日つらいなあ」と思うからってうつ病にかかった当初のような希死念慮があるかというと、そういうわけじゃない。しんどい言いながら、ひーひー生きている。

 しんどい、つらい、楽しくない──そう思いながら、それでも毎日生きている。

 つらくないとか楽しい日々の方がいいに決まってるけど、漠然とモヤモヤした気持ちを抱えながら生きている。

 もう歳だし、このあとはずっとこうかもなあ、と思うとそれはそれで憂鬱ですが、割とそういう気持ちを小説にしながら生きていたりもする。

 フィクションである『ソウルフル・ワールド』の清々しいラストとは違い、現実はそう簡単に割り切れない。でもまあなんとなく、あの主人公は、もっと苦労するようなことがその後あったとしても、「あの時、死ねばよかった」とは考えないのではないか、と思うのです。それがあの物語で彼が得た、最大の教訓というか、覚悟みたいなものかな、と。

「生きること」を楽にするコツは、自分を少しずつ甘やかすことなのです。まあ、「自分を大切に」とか言っても使い古されすぎてピンと来ないから「甘やかす」と言いますけど、とにかく自分を肯定して、ケアして、時には誰かに頼る。つらくとも、最低限それくらい、少しずつでもできれば「生きられる」ということ。

 私も今、そうやって生きている。

「そのうち、いいことがある」という言葉どおりのことが起こったとしても、そう感じられないかもしれないけど、おいしいものをおいしいと感じ、美しいものを美しいと認め、猫やかわいいものや推しを愛でながら、その都度生きていこうと思います。

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