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海馬に住み着いた陽気なDJと吐き出せなかった味のないガム。

忘れたくないのに忘れてしまったこと。
忘れてもいいのに忘れられないこと。

人の記憶は曖昧で五感に深く刻み込まれた鮮やかなその輪郭は時と共に薄れていく。
やがて形を変え脚色されて都合よく変化しながら。

これは時折脳の片隅で静かに目覚め脈を打ち、
息を吹き返すエピソード。
記憶を司る海馬がなぜか脳の皺にねじ込んだ出来事。
長い人生のなかのほんのささやかな2時間の記憶。

専門学校に入学し夏が訪れる頃には友人宅に入り浸るようになり、あまり家には帰らなくなった。
その日も朝まで友人と過ごし、始発で家に帰るため大阪駅のホームで電車を待っていた。

季節はちょうど今ごろ。
風の中に少しずつ秋の匂いを感じるようになった日曜の早朝。

噛んでいたガムを出そうとポケットの中に入れた包み紙を探していると、突然背の高い黒人の男性に声を掛けられた。

2メートルはあろうかというその男性は
ガッチリとした体格で黒いキャップを斜めに被り、その下にバンダナを巻いて首元には金のチェーンというヒップホップな装いをしていた。
ニコニコしながら少し離れた行き先の案内表示を指差して
「Himeji?」と尋ねてきた。

姫路?
大丈夫、停まるよ!の意味を込めて笑顔で
「Yes!」と答えた。
安心した様子の彼はありがとうという風な表情を浮かべながら人気のないホームをゆっくりと歩いて行った。

しばらくすると電車到着のアナウンスが流れた。少し緊張が解けたからかオール明けの体に疲れと眠気が襲ってくる。早く座ってうとうとしたい。
到着する電車のドア付近まで移動すると先程の男性がニコニコしながらわたしの隣りにやって来た。

ドアが開き男性が右に行ったので後ろにいた自分は何となく左に折れ、車両の端の向かい合わせで座る4人掛けの席に座った。
ようやくゆっくり出来る。1時間くらい眠れるだろうか。と安心したのも束の間、さっきの男性がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
目の前の通路で立ち止まったかと思うと
わたしの斜め前の席にどしっと腰を下ろした。
見上げると、やぁ。という表情でニコニコとこちらを見ている。

日曜日、早朝の下り電車。
同じ車両に乗り込んだのはわたし達を含めてせいぜい10人足らずだっただろう。

寝不足の回転しない頭で車両全体を見回しながら状況を把握し

嘘やろ…と心で呟いた。

ここから地元駅までは約1時間半の道のり。
席を変えようという考えがチラッと頭をよぎったが、はるばる海外からやってきて慣れない土地でまだあまり知り合いもおらず、孤独に暮らすこの男性(知らんけど)にそんな冷たい態度は取れなかった。

ふんふんと鼻を鳴らしご機嫌な様子の彼を刺激せず何とか大人しくやり過ごしたい。
あわよくば少しだけ眠りたい。 


電車は定刻通りに大阪駅を出発した。


大阪駅を出ると程なくして淀川が見えてくる。
電車が陸橋に差し掛かったあたりでニコニコしていた彼が
「What's your name?」
と聞いてきた。
一瞬どうしようかと迷ったがまたはるばる海外から〜というフレーズが頭をよぎり
正直に「I'm yayu」と答えた。

「yayu……」と満足そうに頷きながら
完全にわたしのターンの雰囲気を出している。
どうやら次はわたしが名前を聞く番のようだ。

ちょっと面倒くさい。
というか早く眠りたい。
そういえばさっきタイミングを逃したが
いい加減ガムも出したい。

そう思いながらも
「What's your name?」
と尋ねると彼は大きく胸を張り、両手の親指で自分を指しながら

「I'm funky!DJ funky!」と言った。

嘘やろ…とまた心で呟いた。

話を広げたくはないがこのDJ funkyが何者なのかはちょっと気になる。
押すなよ押すなよと言われると押したくなるのが人間の性だ。

「DJ?」と聞き返すとfunkyは
「Yeah」と答えた。
そしてラップの始まりによく耳にする
「Yeah Yeah. C'mon〜」からfunkyのラップが始まった。

手で大きくリズムをとりながら繰り広げられる
滑らかなラップ。
緩急をつけた見事なフロウ。
押すなよと言われて押してしまった後悔。
funkyに火を付けたのはわたしなのかもしれないという自責の念。

どんな顔で聴いていたかは分からないが自分がとるべきリアクションを探っていると
またはるばる海外から〜のフレーズが頭をよぎった。

仕方なく足と手で小さくリズムを取り
ラップよ早く終われ。funkyよ鎮まりたまえ。
と強く願った。

歌うfunky。小さくなる自分。
踊るfunky。もっと小さくなる自分。

駅に着き扉が開くたび
こちらの席に誰か来ますようにと願ったが
みんなチラッとこちらを見るとスッと右側の空いてる席の方へと向かって行った。

傍目から見ると陽気な2メートルの黒人と女子が
ラップで盛り上がっているのだ。
わたしは立派なfunky一派。
気付かぬうちにfunkyファミリーの一員となっていた。

結局、わたし達のいるゾーンには誰も足を踏み入れぬまま滞りなく電車は進み
いよいよ次は地元駅という所までやって来た。
先の見えなかったfunkyとの短い旅にも
ようやく終わりの時が近づいていた。

「Next station…で降りるよ」と告げると
funkyはラップをやめて「Oh…」と悲しそうな顔をした。

そして耳の横で電話のジェスチャーをしながら
「Mobile phone?Telephone number?」
と言ってきた。

いや。さすがにそれは…と思い
持ってないんだよね。
と残念そうな顔をしてみせた。
funkyはまた「Oh…」と悲しそうな顔をした。

大阪駅で出会ってから約2時間。
日本代表として充分なおもてなしはきっとやり遂げたはずだ。はるばる海外から〜のフレーズはもう頭から消えていた。


見慣れた地元の風景が窓の外に広がる。
あの大きなマンションが見えてくると駅はもうすぐだ。

車内アナウンスが地元駅到着を告げる。
わたし達の旅は終わった。


「Thank you Bye bye…」


濃厚な2時間が嘘のように
案外あっさりと駅に降り立った。
振り返るとfunkyを乗せた電車は静かに走り去って行った。
もうすっかり味のしなくなったガムを口の中で転がしながら少しずつ現実に意識が戻っていく。

あんなに解放されたかったはずなのに
こちらを振り返らないfunkyの背中をずっと目で追ったのはなぜだろう。

そもそもfunkyは何者だったのだろう。

20年以上前のたった2時間の出来事なのに
今でも鮮明に残る思い出。
もっと大切な忘れたくない記憶を押しのけてまで脳に刻まれたfunkyとの濃厚な旅。

海馬も消せなかった
いや、人の海馬すら乗りこなし去っていった
DJ funky。

funky、元気ですか。
またこの季節がやってきたよ。


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