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雑記 349 夏も近づく八十八夜

今日5月2日は、八十八夜。茶摘み歌でお馴染みの、八十八夜で、古来、稲の種蒔きや茶摘みの目安にされる。

私も親戚の田植えのために、新幹線に乗って富山に来た。
ここ2、3年は、コロナのため、県を跨いでの移動は禁止であったり、感染者数の多い東京の人間は、遠慮してほしい、と言われたりで、手伝いも叶わなかった。

今年は、
来てもいい、
という許可が出たので、二つ返事で引き受け、
と言っても、たいしたことは出来ないのだが。
田植え機を運転して、田圃に稲を植え付けて行くのは、男の人の仕事で、前回、私の仕事は、稲の入っていたパレットを側溝で洗うことだった。
見渡す限りの田圃。
朝から晩まで、次から次へと、空の、土で汚れたパレットが脇に積まれて、
洗っても洗っても、果てがない。

側溝の水は、冷たく澄んでいて、流れるスピードは早い。幅が狭いので、大人は落ちても大丈夫だが、子どもだと溺れるかもしれない。
側溝の上に板を渡して座り、脚を両脇にかけて、パレットを洗うのだが、その水の透明な様や、流れる音に、言いようのない感動が湧いてくる。

たま〜にやるから、そんな気分になれることは承知だ。

澄んだ空気の下、テレビの音も何もない中で、
空の高みを渡る風の音を聞き、それが、強まったり弱まったりするのを感じて、心が満ちてくる。

目の前の空間を、切り裂くように燕が飛び、実に自在なスピードで、目にも止まらぬというのはこのことを言うのだと思う。
午後になると、どこにいるのか、少しずつ少しずつ蛙の声が増え、ゲコゲコ、ゲコゲコ、と合唱になって、私の周りを包んでくる。
燕や蛙は毎年同じことだが、何度経験しても、ワクワクする。

これは、農業を職業としない人間の贅沢な遊び。

郊外に住んでいた妹が、
蛙? 珍しくもない。やかましすぎる。
など言っていたが、日常に蛙の声がない私には、新幹線の運賃をかけても聴きに来たい。

故郷へ帰る人々の鞄。故郷のあるひとはいい。
新幹線弁当

さて、明日は早いので、今日はもう寝ようと思う。

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