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いわゆる刷り込み

昔父の趣味でよくついて行っていた店があった。電子機器やそれらの周辺パーツを扱う店で、幼い頃の自分はとりあえず店内に入り、父の隣で店内を見回していた。数々の映像が流れるモニター、何にか使うかわからないプラグ、ミニチュアの都会だと思っていたマザーボード。とにかくついて行っていた。
歳を重ねると、サンプルのマウスで遊び始めたり、パソコンで作り上げるイラストに興味を持ち始めた頃はイラストソフトが販売されているところを見て妙に興奮した覚えがある。


よくよく考えてみると、父の部屋には数え切れないほどのガラクタが転がっていて、それはおおよそ電子パーツだった。マザーボードもキーボードも、今でさえ全くわからない電子機器が足の踏み場がないほど置いてあった。その部屋でよく子どもだけで父のパソコンを扱い、mixiのゲームをやったり、Yahooきっずのきせかえゲームをしたりして遊んでいた。父がいる時は父がやっているゲーム画面を、わかったフリして見ていた。今も、父が話す電気の話はわかったフリ聞いている。自分の家はこんなだが、おそらく他の家庭はこんなことはなっていないんだろうなと気づく。

店はバイパス沿いにあって、家から1番近いパソコン屋だと私は思っていた。その店が無くなってしまった。

物心ついて中学生にもなった私は、父がこの店に来ると車の中で絵を描いてその帰りを待っていた。パソコン屋に来て、ゆっくり車の中で待機する時間はわたしの好きな時間で、雨が降った日なんかは尚更気分が高揚した。褪せた青い外装が知的なパソコン屋さんを、親近感へと変え、広々と栄えた街には不釣り合いだと思われるその店が死ぬまでここにあることを確信に変えていた。そのはずが、急に無くなって、急に急に別の飲食店になっていた。

この店での思い出など本当に大したことがなく、特定の大事な記憶などありもしないのに、無くなってしまったら悲しくなる。そこにこの店があることが当たり前だったからだろうか。しかし、私にとって目に見える得はなかった。

そんな気持ちがあることに私は1番驚いている。ささやかな休日にあったこのパソコン屋さんが、時間の経過となくなっていくように、この気持ちもいつかなくなってしまうのかもしれないなと思うと、また少しだけ悲しくなってしまった。







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