私が一番、私の声を聴きたがっているのだから
最近はなかなけ書けなくて悶々としていました。
書こう書こうと思って書けないのは、明確に読んでくれる「誰か?」を想像してしまっているからで、そのせいか書くに値しないと私が思ってしまうわけで。
けれど、それは「書きたい」という欲求とは全く別の話。
どちらかと言うと、書けないときこそ言葉にしたい想いはたくさんあって、だからこそ一度書いてみると、その言葉に引っ張られて、せきをきったように感情が溢れ出す。
そうわかっていても書けないのは、やっぱり書くに値しないと思ってしまう謎の自分ハードルで。
けれどもやっぱり書くことは諦めたくないから、書いてみる。書いてみることでしか、答えは見えないのだから。
「書けない」のは、私が私に求めてしまっているから。
求めすぎた要望(=期待)に押しつぶされた結果、何も発露できないという状態に陥っている。
いつだって心身ともに不調になるのは「求めすぎ」が原因であることが多くて、自らが変わろうとするのではなく、相手に求めている。待ちの姿勢、なんて傲慢な。
はじめは
という誰かへの小さな願いであっても、慌ただしくなり余裕がなくなると
という要求になる。
思い通りに行かない現実にイライラして苦しくなる。だってそれは願いではなく、もはや強要なのだから。
この「なぜ?」は自分の答えが手に入らないことへのイライラで、テイクを前提にしたギブ。もしかしたら相手がほしいものではないかもしれないのに。
いとも簡単にこの「求めすぎ」な状態に陥るし、自らがその状態であることに気づけない。
唯一、気づけたときは、書いた後だったりする。(まさに今)
とは言え「求められた要望に応えること」が仕事なのならば、仕事においては何も間違ってはいないとは思うのです。
ところが。
若かりし頃、朝から日付が変わるそのときまで一日中、仕事をしていた。
業界未経験だったこともあり指摘されることも多く、仕事ができるようになりたいと高い目標を掲げた結果が「自分に求める」ということ。
一つでもミスをしたら0点。できてもいないのに喜んではいけない。
この頃は喜ぶ、笑うという感情はなかったことを覚えていて、そんなもの手にしてはいけないと思っていたし、縁遠いものだと思っていた。
そうして時が経ち、経験と自信もついたとき、初めて誰かが喜んでくれたとき、はじめてほっと安心できて笑顔になれた。
笑顔になることをタブーとしていたからか、喜んで笑っていいのか戸惑う。戸惑うけれど、これが確かだと信じて笑ってみる。
自らの念でがんじがらめにした思想は頭の中だけで完結してしまうと、外からの刺激に気付けなくなる。たとえそれが自らが変わるきっかけであったって、私の頭の中の法律では禁じられて却下される。
そんなジレンマに苛まれているときに、書いてみた。
今まで信じてきた呪いとも呼べる信念ではなく、今ここで私が願っているものは何か?
それを確かめるように、託すように、検証するようにして書いてみる。
すると、今思っていることこそが真実であると言葉は教えてくれる。今まで頭で制してきたことなど置いておいて、目の前の言葉たちが痛烈に私を語ってくれる。
今までかけて欲しかった言葉たちが、私を理解してくれている、まるで別の人格の誰かが優しく語りかけてくれる。
これが、私の書く理由なんだと思います。
私の声を一番聴きたがっているのは、私自身。だから今日も書くのです。
*
noteを書くときに気持ちとリンクする作業用BGMを選んでいます。日常から非日常にトリップするためのおまじない。
今回はこの曲です。
歌詞が私の気持ちを代弁してくれる。心が求めていた言葉たち。
どうか、「書く体験」で同じように潜っている人の隣で響く言葉となりますように。
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