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生きている声が、大和(カリフォルニア)から聞こえるー怒りの中の、声を聴けー

ー自分の足で、声で立ち上がれ。
それがスタートライン、全ての表現の根源。
生きることがどういう事か、生きている声はどんな声か。
それを見せて示して聴かせてくれるのが
「大和(カリフォルニア)」だ。
知らずのうちに笑っていないか?
失っていないか?
人間が生きている瞬間をー


マイク一本で立つ全ての人たちへ。

はじめて、そこに自分の「声」をぶつけた瞬間の心臓の動きを覚えてる?
誰かから借りた言葉じゃない。むき出しで、生身で、自分の足で立っていて。
自分の心と体と、マイクが直接繋がったみたいな震える瞬間。
震えるけれど、同じくらい嬉しいんだよ。
やっと、自分で自分の言いたいことが分かったことが。
それを見つけた瞬間の喜びは、何物にも代えがたい。
自分の身体を使って、ずっとやりたかったことを、表せた喜び。

怖かったはず、そこに立つまでは。
自分がどこにいるか、何を言いたいのか今何言ってるのかも分からなくてさ。
体の中で持て余した怒りや怖さだけが渦を巻いて、どこからも出られなくて。
でもさ、一歩踏み出したんだよ。
自分の足で踏んだ地面の感触があってさ。
どれだけそれが小さな、1㎝やそこらの一歩でもさ。

傍から見たら拙くて、ほんの小さな一歩でも。
それは自分の人生の中では、最高に嬉しくて生きていて良かったと思える、一歩。

「大和(カリフォルニア)」はそんな全ての表現の根源、その瞬間を映画の中で捉えている。
初めての一歩、初めての声、初めての言葉。
世界が変わる喜びを味わえる、観る人も主人公の「サクラ」になって。
それは拙い言葉かもしれないけれども、それに気を取られて見逃さないで欲しい。
ものすごい一歩で、ものすごい瞬間なんだよ。

海外版「大和(カリフォルニア)」のポスターを見ると、視覚的に映画のタイトルが飛び込んでくる。
大和市の中に括弧で閉じられた、カリフォルニア。
ーここまでが大和で あっちはカリフォルニアー

自分の周囲にはいつも世界とのすれすれの境界線がある。
ほんの数㎝の違いで、幸せと不幸せが隣り合って。
見えているけれども、それは自分の世界じゃない。
ほんのちょっと先、のはずなのに手を伸ばしても届かない。
どこで間違えた?何を間違えた?問うことに意味もないし、
遡って別れ道を見つけたところで、戻ってやり直せる訳でもない。

もどかしくて、苦しくて。自分の近くにずっとあるのに、どうにかする手立てが分からないからこそ。
その感情は、いつの間にか怒りに変わる。自分でも手の施しようがないほどに。

怒りは、怖いものだ。
自分の感情であるはずの怒りが、いつの間にかそれ自体が意志を持っているみたいに私を乗っ取って来る。
一人ではとても、手に負えなくなってしまうほどに。

誰かと一緒に怒れるときは、まだいい。
その怒りで、誰かと手を握り合えるから。
けれども、自分ひとりで抱えた怒りは体の中でどんどん渦を巻いて、はけ口を探す。
怒りは単純だから、水が上から下へ流れるみたいに熱くなった頭から直接つながって口から飛び出て、
そして拳に流れ込んでくる。物に当たり散らし、力任せに殴りつける。
でも、それじゃ消えないんだ。消せないんだ怒りは。

出来るだけ、怒っていたくはないけれど。
怒りの中心にある、自分の思いだけはちゃんと聞いてあげたい。
頭を熱くした怒りを、腹に落とし込んでもう一度自分の声として聞いてみる。

私も人前でマイクを握ることがあるけれど。
時々、知ったかぶりの聞いたことのある言葉を並べそうになって、そこに伸ばしかけた手を慌てて引っ込める。
それと手を繋いでしまえば、マイクのコードが繋がってるのは私の言葉じゃなくて、誰かの言葉に乗っ取られて。
誰も気が付いていないけれど、自分だけはその瞬間に分かっている。
そこに、自分の「声」じゃないものをぶつけてしまった、後味の悪さを。
そこに行けば、もう戻れない怖い場所だ。

もし、自分が何をしたいのか分からなくなってしまったら。
自分以外の声に、体を乗っ取られそうになったら。
自分の本心からの声が、怒りにさえぎられて聞こえなくなってしまったら。
「大和(カリフォルニア)」を聴きに来たら良いと思う。

身体ごとさらわれそうな轟音の中に、自分の声を見つけに来て。

そして、ラストシーンのサクラの顔つきを見て欲しい。
あの顔はほんっとに、ほんっとに。
ほんっとに、ねえ!なんだよ。

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