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生き悩む人 第2回


2023年4月2日。日曜日です。今日は7時過ぎに起きました。それから、ラジオ体操と、洗濯をして、洋服に着替えて、絵を描きました。
何かに悩んだ時に、つい外に答えを求めてしまう傾向にあります。外、というのは誰かが描いた本だったり、Youtubeのそういう対話している動画やドキュメンタリーだったり、画集だったりです。もっと身近なところになると、他人です。家族であったり、兄弟だったり、友人だったり、恋人だったりです。動画の立場の全然違う見方から話をする人です。
ついついYouTubeの動画を無心で見たりしてしまいます。ただ、誰かの意見を一方的に聞くのも、そういう誰かの作ったものをすべて間に受けてしまうのもどんなものか、と思って止めることが多いです。食べるの動画を見るだけなら全然問題ないな、とそれは見て今日何作ろうかな、と考えてみたりします。
大切なところは外から読んだり、話を聞いたりする中で、自分はどう受け止めた、考えた。ここは納得できるけど、ここは意見が違う。それはなぜ?というのを自分の言葉で考えて、話したり、書いたりすることが外からの答えを探そうとするときに、必要な工程なのではないでしょうか。
わたしの場合、失敗するのが、こわいので、それはとてもこわいことと感じています。自分の内側の危険信号みたいなものが、もはや無意識の中で教えてくれるのかなと思っています。わたしの場合のそのこわいな、と思う部分はお金のこと、生活のリズム、体調や体重のこと。対人関係なら、人のためになることをしなくちゃ。礼儀が未熟な部分があるから、せめて相手が不快にならないようにしなくちゃ。人と付き合う時には、自分のできることは提供しなくちゃ。機嫌を損なったり、怒らせたりしないようにしなくちゃ。人間関係で自分の軸ではなく、つい相手の軸に合わせようとする傾向があります。これが課題だなぁ、とよく実感します。絵は上手にならなきゃ。しっかり税金のことも調べて、大学のことも調べて、情報を得て、比較して、それから優先順位を考えて、損しないように、ちゃんと実になるように。無駄のないように。ちゃんとしなきゃ、ちゃんとしなきゃ、という失敗しないようセンサーみたいな部分が強いのかな、と感じています。きっと、そのひとごと、悩むひとごとにに、失敗しないようにセンサーが何をきっかけに働くのかそのひとによっての傾向があると思います。

1ヶ月ほど前に、別れを伝えた前の恋人に悩みを話した時に、「じゃあこうしたら良いじゃん。別にそれで死ぬわけじゃないんだから、いいじゃん」と言われたことがあります。それから「大学に入り直して2年間は遊べばいいよ」と。素直にその後、傷つきました。解決策として提案してきたのが、短絡的な方法だな、と思うと同時に、話さなければ良かった、と傷つきました。生き悩むひとは、きっと自分に原因がある。と考える人が多いのではないでしょうか。わたしはそう思わせる会話や、振る舞いが自分にあったのではないか、と思いました。それでまた悩むわけです。何に傷付いたを、馬鹿みたいですが、悩みたくて悩むわけではないのです。本当は、不快だと感じて、自分の考えとはかけ離れていると思うなら、そもそも、それを相手にわかってもらおうと頑張る必要がそもそもないわけです。合わないねと言って、離れるのがいいわけです。それも分かっています。その方とは、3ヶ月も経たないうちに、経緯は特にもう話しませんでしたが、わたしからお別れをしました。「他人との距離感を作るのがお互い下手なんだよ」と言われました。そうなのかも知れません。
「死ぬわけじゃないんだから」という言葉はすごい暴力的な言葉だと思っています。わたしにとっては、ですが。実際に死にそうになります。向こうからすれば、勝手に傷付いている人です。「言っても変わらないじゃん」と言われたことも、嫌な方向に相手との関係性が進んでいくと、自分の被害者的意識が強くなります。相手が100悪い、というわけでもなくて自分が0、ということはないです。逆に、そう言われるわたしが100悪くて、相手が0、ということもありません。割合があります。いじめやパワハラはまた事情が違いますので、それはいじめたりする方、酷いことを快楽としてやる側が100悪いです。
ただ、相手から言われたこと、嫌だったことを忘れられずに、手放せないのが辛いのです。1月20日からMECEという、紙に書き出して1人でできる方法を嫌なことがあった時にやっています。

働いていた時には、つい嫌なことがあるとアルコールに逃げたり、たくさん食べたり、一時期は走りに行ったり、散歩に出かけたりしていました。ただ、このどれも、一時的に思考を反らしているだけで、それで大丈夫になる時もあれば、大丈夫にならない場合もあります。そういう時は知らず知らずのうちに溜まっていって、どうにもこうにもできなくなる時がきます。
一時的な方法を選ぶと、根本的にどうしていったらいいのかという次に繋がらないのです。悩みの答えは内側にあることが多いので、それを気が済むまで見つけていく手段や方法を取り組む方がいいな、とわたしは最近は感じています。

このさきは、誰かと食事をしたり、会話の中で楽しい話や、共感してくれるような平穏な会になるのがいいなぁ、と思うのです。
つい昨日、両親とテレビ電話をしたのですが、父から「ものをみて綺麗だな、と思えない時はきっと絵にも出ると思うよ」と会話の中で、父が言いました。その時にわたしは「それでいいのかも」と思いました。父にどうして分かるのかを聞いた時、共感してくれるような経験を話してくれました。それで、スッと納得したのか、ちょっと外から答えに繋がるようなものを頂く機会に恵まれました。
今は日記をつけているように、絵も体調や精神的に調子が良い時も、良くない時も目に見える形で残ることがまず、それだけでもいいな、と思ったのです。
そうして、今日実際に描いてみて、ハードルが一つわかった、という所で良かった、とホッとしました。やっと、描き始めることができました。多分ですが、昨日の平和ななんてことない会話の中で、自分が両親が背中を押してくれたように受け止められたのが良かったんですね。子供のようですが、子どもって帰ってくる場所があるからいろんなところに、外に出ていけるように。精神的に大人なのにどうなの?と思われるかも知れませんが、父がそうやって自分にあったことを打ち明けてくれて、共感してくれたことがとても良かったです。
絵を描くときは、体力が必要です。特有のものです。今日はそれを感じて、昼寝をしました。そうだった、と思いました。絵はこのまま、ファイリングして絵の日記として残していこうと思います。

それから、ヨシタケシンスケさんの「欲が出ました」という本を読み終わりました。
「フーセンを 風船を膨らませてくれと次男が部屋に入ってくる 幸せですな」というページを読んで、泣きそうになりました。読み終わった後に、ちょっとだけ自分の味方に出会えたような感覚になりました。すごいです。おすすめの好きな本になりました。

あまり関係なのですが、じっと作業していると足や体が冷えてくるのですが、耳を温めると良いとみて、やってみたのですが温まって良かったです。
これもおすすめです。
また3回に続けていきたいです。


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