自己愛ではなくて、自分を大事にすること

“自己愛“と、“自分をもっと大事にした方がいい“の違いを考えてみます。

技術を身につけるときにも、何かを学ぶときに、つい頭に浮かんでしまうことがあります。
「人目に触れて技術や知識のなさが明らかになってしまうことが恥ずかしい」「できない自分だと思われてしまう」「バレてしまう」「一度言われて教わったことがすぐに身につけられないのは、要領が悪いんだ」「もっと上手い人がたくさんいる中で、新人だとしても出来が悪すぎるな、自分って」「頭も悪いし、空気も読めない。なんてダメな人間なんだろう。ここにいるだけで恥ずかしい」「情けないしみっともないな。どうみられているんだろう」「もう家にこもっていたい」などなどです。
段々人間性の否定に走っていますよね。
他者と比較した自分を見ていて、しかも内側の自分や、なんだか的を外した見方です。
度が行き過ぎると、自己防衛から、保身に走ってしまい、世界が自分、自分、自分になってしまいます。
これは自己愛の強すぎる状態です。

けれど、負の感情や思考に飲み込まれているときには、それが世界のすべてのように、真実のように思ってしまうのですから、へんてこです。
人間否定に走り出して、他者へ責任転嫁して、自分を客観的に見て、向き合うことから逃げ続けるとどうなるのか。
無意識のうちに近しい人や、ときには人を選ばずにモラルを欠いた言動で人を傷つけてしまいます。
何かで人の上に立とうとしたり、責任転嫁から、自己防衛のくせ、自己愛が行きすぎて、他者を責めます。
しかも、お得意の何度も繰り返してきた、慣れた方法を繰り返すのが人間ですから、人間性の否定が入ると、言ったり、言わず場合はありますが、モラハラもしやすい人間が出来上がってしまいます。

自信はないし、成功体験は少ないし、でもどうしたらいいのかわからない、というのも正直なところです。

もう一人の自分がいるようにして、俯瞰してみる癖をつけると楽になるよ、とよく耳にします。
これ、どういうことか言語としては理解できますが、どのように実践したらいいのかわかりません。

「人目に触れて技術や知識のなさが明らかになってしまうことが恥ずかしい」

→学校であれば、その技術や知識を学ぶ場に来ているため、技術も知識もないことは前提です。
恥ずかしさを感じるよりも、疑問に思った点に着目して授業や、資料や取り組みそのものに集中する。
質問するときに「恥ずかしい」と思う時もありますが、1回1回の授業や講義の中で「質問すること、知らないことを知るための勇気を出して行動しよう」と思えると違ってきます。

大人になると、仕事で「こんなこともできないの?知らないの?」と言われることもあるかと思います。

→前提として、相手は自分の背景をすべて理解してくれる甘くて優しい人ではありません。仕事をする同僚や、上司となります。なんでも教えてくれるのは先生ですが、先輩も上司も、先生ではありません。教育担当もいるかと思いますが、同僚であり、両立して教育も仕事として担当している人なわけです。要するに、給与(働くことで会社に貢献することでお金として対価を得ている状況です)が関係しているため、効率が求められます。時間的にも、のんびりしていたら、どうでしょうか。自分はいいかもしれませんが、周囲の人がどのペースで仕事をしているのか、盗める部分を得て家に帰った方が得られるものが大きいです。
どの段階にあるかを客観的に把握することが、俯瞰して自分を見ることです。
新社会人であれば、そこのやり方なんて経験がないのですから、知りません。全く知らないことは素直に「教えてもらえますか?」と聞くのが吉です。

とはいえ、このチクチク言葉には傷つかないか、と言われれば、傷つきます。言われても、相手のこともその人が持つ背景までは分からないしな、と気に留めずになるべく重く受け止めすぎないようにできたら、と思います。
合わなすぎる人とは、遠くから関わりましょう。

次は「できない自分だと思われてしまう」「バレてしまう」です。
→完璧主義が強い場合、世間体や人の目を過剰に気にしすぎる傾向にあります。
できない自分のその先に、出来るようになったらこんないいことがあるという目的を明確にして理解しておくことが良さそうです。できない自分は、そのまま向き合わないと、当たり前ですが、出来るようにはならないです。
また、仕事であればできないことがもたらすメリットとデメリットを考えてみます。自分ができない状態で、出来るようになることで、安定してその先のお客さんや商品に安定して活かされていきます。また、応用して行かれることで質が良くなります。
デメリットは、変わることなくできない状態を維持することは、その先のお客さんにとっても、商品や会社にとっても、その人のスキルにとっても何も培われない0のままの状態が続くということです。

「一度言われて教わったことがすぐに身につけられないのは、要領が悪いんだ」「もっと上手い人がたくさんいる中で、新人だとしても出来が悪すぎるな、自分って」「頭も悪いし、空気も読めない。なんてダメな人間なんだろう。ここにいるだけで恥ずかしい」「情けないしみっともないな。どうみられているんだろう」「もう家にこもっていたい」

→まとめてしまうと、すべて自分の“感情“に支配されている状況で、沼にハマっています。気づいて感情の沼から出て、その先の行動に進みましょう。
“感情“に支配されているというと、ヒステリックや、自分の思うように進まないとイライラを外に表出してしまう状況を考えてしまいます。
けれど、感情はいろんなものがあります。
恥ずかしい、情けない、気分が落ち込む、暗い、照れくさい、嬉しい、悲しい、悔しい、怒り、寂しい、怖いな、不安だ、自信がない、怯んですくんでしまう、楽しい、沁みるな〜、快、楽だな、不快などなど。

上げてみると、感情に支配される状況の思い込みの偏見があったことがわかります。
気づいていなかったことに気づけると、そこから先に進むヒントになってくれます。
最終的には、どっちの自分がいいか、0か100かすべてが想定通りに行くことはないので、割合がどのくらいだったかを振り返ることは今後に活かせる経験として昇華することができます。

自己愛の強い状態は、自分の感情に支配されて、感情は自分の内側で起きていることです。内側で精一杯で、外に目が向けることが困難な状態と考えられます。
他の人や、行動の先に及ぼす影響まで考えることが難しくなっています。これは自分本位になりやすくて、他の人も自分の想定内で物事を落ち着かせるための行動を強いようとする場合があるため、要注意です。

長くなりましたが、自分を大切にすることは違います。
大切なペットでも、大好きなおもちゃやゲームや、持ち物は取り扱いを丁寧にします。
大事に手をかけますし、コストもかけます。壊れないように、ペットは長生きしてもらえるように、幸せでうちに来てくれて良かったと思ってくれる生涯を過ごせるようにと関わります。
自分にも、メンテナンスをしたり、体を壊さないように必要なものを導入したり、長生きできるように食事に気を遣ってみたり、けれど時々はとびきり美味しいものを食べてみたり。男だからこう、女だからこう、という決まりはありません。誰かにわざわざ名言する必要もないのです。
ただ、大事なものにやっていることは、自分だけの経験であり、思い出になります。
そういう風に自分のことも扱うことができたら、精神面でも「自分なんて、」「恥ずかしい存在なんだ」などわざわざ卑下することも少なくなっていきます。
浮かんでしまう感情は、癖づいていることなので、時と場合によって、また、時間はかかる場合もあります。
意識してやらない選択を取るという決断は、できます。時と場合によって、誰かを巻き込んでしまった時には余計自分を責めてしまうこともあります。けれど、繰り返さない努力をすることはできます。

人間は知能が複雑で、能力や後天的に努力で変えていける部分が大きいです。その期待が大きすぎると、今の自分との理想が離れすぎていて、現実に今いる自分を受け入れることが難しくなります。
何が得意なのか、できるのか、何は苦手なのか、性格などは一度書き出してみて見える化するのもおすすめです。
その今あるものを把握してみると、理想と今の自分の差はあまりにかけ離れることは少なくなります。
できることで、磨いていきながら、粗末に扱わないことが自分を大切にすることです。



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