虐げられ、と怒れ!

主語の大きい話は良くないな、と思いながら、激しい話はインパクト、印象が強く残ります。Xで流れてくる沢山の話題が川のように流れてくることを目にする時も、派手なものが脳に残ります。

最近、脳神経学者や、精神科医の本を読んでいて、精神的に参ってしまう方は解消されずに蓄積された怒りが、その怒りを表向きに表現することが出来ずにいた人がメンタルブレイクを起こしてしまうという説を目にしました。

それから、感じたことは、何でもかんでも結局は自己責任論に終結することで、表向きは穏便に済ませてしまおうとしまうのでは?ということです。

どの面から見るかによって、物事の見え方が変化します。感情や、快・不快で機嫌やテンションが変化する面があるのが人です。
どこまでの範囲で、という尺度を適応させるのかが個人によって変わってしまいます。

結局大きな声をあげられる人が強くて、その大きな声を上げられるようになりましょう!という感覚を強く感じる最近です。

学校でも、仕事でも、声が大きな派手な人が目立つので、そういう人が拾い上げられることが多い経験は多くの人が経験されていたと思います。
今現在では、無神経で、声が大きければ大きいほど優先されて、拾い上げられて、生きやすい!という肌感覚があります。態度で人を振り回す方が得、大声で目立った主張をすることがお得、という感じです。

実際、能動的に、主張する力は大事です。
全て周りの人にお世話してもらって、心配りしてもらって、というのは新生児か、お客様です。

すっごくバランスが悪いように感じます。けれど、声の大きくない人は、別の領域で目立つ事が求められています。もしくは、退行する行動欲求で一時的に満たしている場合もあります。

誰かに認めてもらわないと生きづらい、1人で満足するには混沌としている世の中、折れない人生チキチキレースという感じです。

普通の声量で、時と場合で調整するのが良いと考えています。小さすぎも聞こえなくて困りますし、大きすぎるとうるさいです。バランスを探っている最中です。負けないです。

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