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あれは春だったのね

僕たちひとりひとりが発する音はとてもシンプルなものであって良くて、けれどもそれらの連なりが、時折奇跡のように、穏やかで美しい曲を奏でることがある。うすうす、そして同時に確信もしていた。僕たちの間にはいつも一つの曲があったから、あとは連弾をするように手をとって、互いの調子を馴染ませるだけで良かった。なんて懐かしい時間だったのだろうか。なんて優しく、美しい時間だったのだろうか。僕らの出会いは水の反映や、木漏れ日のゆらめきや、朝の雨に濡れた地面、花の咲く糸口だったよ。

君が、この家は森だねって言ってくれたことで、思い出したことがある。僕自身もすっかり忘れていたことだったけれど、この家をつくる時には確か、そんなふうに想像をしていた。3年前、剥き出しにした屋内の荒地に種を蒔くように、僕は壁や床をはり、ちゃんと芽が出るように調えていった。カミさんや子どもらが作ったり描いたものは、深い色彩の苔がむすように、そうしてだんだんと活き活きと木々が枝葉を伸ばすように、この家を育てるといいなと思っていた。僕はいつの間にか、その森の中の一部になっていたらしい。ねぇ気付いていた?君を家から送り出す時、僕は自分が育てた小さく深い森に気付き、その愛おしさが逃げ出さないように鍵をかけたんだ。君たちがまたこの森の陽だまりに、ちゃんと帰ってきて、一緒においしい食事をして、一緒に歌を歌えるように願って。

顔を合わせたら、もっとたくさんの事を話すかなって思ってたけど、もう互いを語る言葉さえ必要のないくらいに、僕らの物語は綴られていて、もう一緒にいられるだけで充分だった。賑やかだけど穏やかな、あれは春だったのね。

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