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小説 開運三浪生活 70/88「HOT SPARの夜」

初めてのアルバイトの翌朝、県立図書館の開館と同時に文生は浪人生の日常に戻った。朝九時から正味九時間、閲覧席という名の自習室で川相塾のテキストに集中する。蛍の光が流れる夜七時、爽快な達成感に包まれながら図書館を後にする。たまに大通りのさわや書店に立ち寄る以外はまっすぐ盛岡駅に向かい、電車の中では英単語帳を睨む。一日の勉強はそこまでで、家では一切しないことに決めていた。

夕食後にテキストを開いてもどうせはかどらないことは、一週間と持たなかった仮面浪人期間に実証済みだった。しょせん俺の根性なんてそんなもん――とは、誇り高きこの男は思わなかった。でも、できないことはできなかった。文生にとってアパートの自室は、くつろぐためだけの場所と割り切った。

化学と現代文と英語の長文読解のテキストを消化した木曜の夜、文生は夜十一時で閉まってしまう近所のHOT SPARに出かけた。

日中に解いた英語の長文問題のなかで日本語訳がパッと浮かばなかった単語をマーカーで塗り、赤透明の下敷きで隠して、電車移動中に暗記テストをするためである。一度塗ると消せないので、プリンタでテキストをコピーしてからマーキングする必要があった。文脈のなかで憶えた英単語ほど記憶に定着する、という去年の経験から編み出した文生なりの策だった。コピーは手間だがしょせん週に一度だし、さいわい歩いて数分のところにHOT SPARはあった。

晴れた夜だった。住宅に挟まれた小径を、文生はトボトボと歩んだ。時折り初夏を思わせる風がそよぐ。道端の草がいつのまにか伸びていた。小径に面したアパートから、男女の笑い声が聞こえる。この辺りはアパートが多い。県大かそれともほかの大学か、あるいは専門学校の学生だろうか。ひとりで過ごす図書館の日々に気楽さを覚えていた文生だったが、若く楽しげな声を耳にすると、一分の寂しさが思い出されるのだった。

車が通過するのを待って、文生は片側一車線の道路を渡った。街は暗く、HOT SPARだけが静かに光っていた。――今ごろ蛙の大合唱かな。文生はふと、東北の南端にある地元の夜を思い出した。

「いらっしゃいませ――」

無精ひげを生やした三十代くらいの男性店員が、張り切らない声で文生を迎えた。おそらく店長だろう。文生は迷わずプリンタに向かった。

数人の客しかいない店内に、パンクっぽい曲が流れていた。突き刺すような男性ボーカルが、有刺鉄線がどうのこうのと物騒な詞を唄っている。メロディもサウンドも文生の好みではないが、訴えかける力強さを持つその声と歌は、なんとなく今の気分に合っている気がした。何かしら不本意な現状を打破したい作り手の意図を感じた。

長文読解のテキストのコピーを終えると、文生はドリンクコーナーで生茶の一・五リットルのペットボトルを選び、レジに向かっていった。

来たのと同じ小径を文生は歩いた。さっきのアパートから、若い男女がじゃれあう声が聞こえてきた。

「……有刺鉄線を越えっっ!」

文生は小さく口ずさみ、自分が住むアパートへと急いだ。

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