見出し画像

小説 開運三浪生活 76/88「橋を焼く」

文生が母親に県大を退学する意志を伝えたのは、八月の末のことだった。

「ええ⁉ んじゃフミオ今県大かよってないのけ?」
「そうだよ」
「いつからかよってないの……」
「五月」
「んじゃ、そっからずっと広大の勉強してたのけ」
「そう」
「知らなかったぁ……んじゃお父さんとお母さん、何のために学費払ってんの……」
「そうだよ、無駄なんだよ!」

我が意を得たりとばかりに文生は力を込めた。

「もう県大に戻る気はないから。だったら、籍置いてる意味もない」
「休学でいいんじゃないの。最初に広大受けた時みたいに」
「それじゃダメなんだよ。『落ちても県大に戻ればいいや』って、無意識でも心のどこかにスキができる」
「……だから去年、休学して川相塾行っても受かんなかったのけ?」
「いや、それは違う。川相塾のおかげで学力は伸びた。けど、それでも届かなかった」
「フミオ、今予備校行かないで一人で勉強してんだっぱい? 川相塾行っても受かんないくらい広大難しいのに、今年それで受かんのけ」
「……」
「お母さんとお父さん、県大受かった時すごくほっとしたのに、なんでせっかく入ったイイ大学辞めっちまあの? これでもし広大また駄目だったらホントに浪人だっぱい」
「……」
「言われるわ、近所の人に。――田崎さんゲの文生君、理数科出たのに何年も浪人してんだ。理数科なんて大したことねえんだ――」
「んじゃ、県大に籍置いてることが広大にバレたらどうすんの」

文生はわざと声を落とした。

「え……」
「もし広大に受かったとしても、県大に籍置いてるがために合格取り消しなんてことになったらどうすんの? そんなことになったら悔やんでも悔いきれねえよ!」

半分恫喝に近かったが、もう半分は心底からの心配であった。ただ、大学の職員がそこまで受験生を調査する暇などないと気づくのは、数年後のことだったが。

「――そこまで言うなら、今度は広大に受かる自信あんだね、文生」
「ある。模試で何回もA判定出てる」
「もし受かんなかったら、お母さん――」
「いや、受かる!」

文生は断固として言い放った。一抹の不安もないではなかったが、高校入学からのこの六年弱の間で、今年ほど学力に自信を得た年はないのである。

「――もう、わがった。……じゃ、退学の手続き進めな……」

母親は力なく電話を切った。
 
いつになくエネルギーを要した電話を終えて、文生はしばし放心した。これで橋は焼き落とされた。よかったんだ、これで。本気の受験生に退路など要らない。そもそも広大に対しても、県大に対しても失礼だ――。

ふと、三つ年下の弟、武登のことが思い出された。今高校三年生の武登も、受験生ということになる。順調に行けば、来年は兄弟そろって大学一年生ということになる。

武登は関東圏の私大の指定校推薦を狙っているらしいので、よもや同じ大学に通うことはあるまいが、中学でも高校でも在学期間が重ならなかった弟と同学年になることに、自らの意志による選択とは言え、また悲劇のヒーロー感を味わう文生であった。同時期に大学に通うことにともなう両親の金銭的負担にまでは、気が回るべくもなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?