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小説 開運三浪生活 69/88「バリューセットの功罪」

きめ細かな個別指導を売りにしているこの塾は、講師一人に対して生徒一人が基本である。講師の力量が上がると生徒が二人になる、と採用面接で聞いてはいたが、文生はどう頑張っても一人が限界だと思った。一度に二人も中学生の面倒を見れる自信はなかった。

控え室では、正社員の講師やほかの学生講師たちが談笑していた。どの講師もとにかく明るい。彼らの自然な笑顔が文生をさらに憂鬱にした。

――最初だから緊張してんだ。

文生は自分に言い訳した。愛想のない笑顔を振りまくほど、緊張で声が乾いていった。

一コマ目は中学三年の男子に英語を教えた。さいわいノリのいい生徒で、自分からどんどんしゃべってくれた。聞かれもしないのに部活の近況を報告し、時折り真面目に質問を発した。妙な沈黙の時間がないので、文生は余計な神経を使わずに済んだ。こんな生徒ばかりだったら、教えるのも楽しいかもしれないと思った。

この男子生徒が特に興味を示したのは、「Value」という単語だった。

「先生、Valueって〝価値〟ですよね。ってことは、マックのバリューセットって直訳すると〝価値セット〟って意味ですか?」

文生の指先に、出勤前に食べたフライドポテトのベトベトした感触が一瞬よみがえる。

「その場合は〝お買い得〟って意味だね」

そっか、お買い得かぁ! と、生徒は無邪気な目を輝かせて得心を表明した。我ながら、瞬時に満点の回答ができたと文生は思った。英文をいかに自然な日本語に訳すかは、去年川相塾の英文解釈の講義でさんざん鍛えられている。思わぬところでその成果が出た。

――塾講師、案外行けんじゃね。

文生は心の中でニヤリとした。

二コマ目は中学二年の数学だった。ジャージ姿の小柄で寡黙な男子生徒は、文生から話しかけない限り発言しなかった。文生には見向きもせず、机に向かって黙々と問題を解いていた。

――仲間内ではきっと冗舌なんだろうな。

飲み込みの悪い生徒でもなかったので、無理に話しかける必要もなさそうだった。でも沈黙はつらい。彼にとって自分は先生である。あまり黙ってばかりいるのは大人げない。

「部活、何やってんの」

思わず尋問口調になってしまった。慣れないことはすべきでないと文生は思ったが、遅かった。

「……テニスですけど」

男子生徒は仕方なしに、顔を少しだけ文生に傾けて答えた。重い声だった。

「テニスか。ど、どう? 調子」
「……普通」

そう、と返そうとした直前、あろうことか文生はげっぷをしてしまった。口は閉じていたし、音は極力抑えたつもりだったが、言葉を返した途端ジャンキーな加工肉の臭いがふわっと漏れた。ハッとしたが、遅かった。男子生徒は少しだけ眉毛をしかめ、すぐに視線をテキストに戻した。

「……」

パーテーションで囲まれた狭いスペースを、無音が覆った。出勤前にハンバーガーを食うのはやめよう——文生は心に誓った。

アルバイトから解放されたのは九時過ぎだった。文生は盛岡駅まで歩かず、塾の隣にあるバスターミナルから厨川駅まで出ている最終バスに乗った。この時間に大通りを歩くのは、気が進まなかった。すでに二十歳だというのに文生は深夜の街に対する免疫がなかったし、今は一刻でも早く座席に腰掛けたかった。

――疲っちゃ。

バスに揺られながら、文生は深くため息をついた。

――やっぱ週イチが限界だな。

夜の盛岡を、バスが北上していく。明日からまた図書館通いの日々が始まる。


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