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小説 開運三浪生活 65/88「隠れ浪人」

文生が閲覧室に戻ると、さすがに土曜ということもあり、席は半分以上埋まっていた。それでも、ピリッと張り詰めた空気が緩むことはなかった。自然、文生も勉強モードに切り替わる。携帯電話は電源を切ってジーパンのポケットに眠らせてあるし、書棚に本を探しに行く気も起きない。微量ながら残されていた文生のストイックな部分を、図書館という空間が引き出してくれているのは間違いなかった。

この日の文生は川相塾の数学①のほかに、「化学②」と「英文法・語法」それぞれの第一講分を消化した。この調子で、県立図書館が夜七時まで開いている平日の火曜から金曜は三科目ずつ、夕方五時で閉まってしまう土曜は二科目を消化する計画だった。

川相塾の講義は細分化されていて、数学は①から④まであったし、英語も「英文解釈」「長文読解」など四つに分かれている。文生は厳密な時間割は設けず、その日のテキストを閉館までにできる限り進めることを目標とした。日曜は予備日とし、平日に消化しきれなかった分の進行や、すんなり解けなかった問題のやり直し、去年受けた模試の復習に充てることにした。文生なりに考え出した、無理のないやり方だった。

結局閉館まで文生は窓際の閲覧席に居座り、予定の三科目を消化した。かつてない達成感に、文生はいくらか自信に満ちた足取りで図書館を出た。まくっていたシャツの袖を戻す。外は日中こそ半袖で過ごせるくらいの陽気だったが、夜になってひんやりとした風が吹いていた。

夜の大通りはいつもよりざわついていた。大きな声で笑いあう若者の集団と、何度かすれ違った。道行く人々が醸し出す解放感を浴びるたび、文生は世間との距離を感じていた。

携帯電話に電源を入れると、留守電が二件入っていた。文生は携帯電話の発信ボタンを押し、左耳に当てた。

「フミオ。連休始まったけど帰ってこないのけ?」

電話口で、母親がいきなり話し始めた。のっけからの鋭い声に、文生は顔をしかめた。

「帰んないよ」

例によってにべもなく文生は言い放った。そもそも、盆と年末年始以外に実家に帰る理由が文生には考えつかなかった。あるとすれば、帰省している高校時代の同級生と遊ぶくらいである。親の心子知らずであった。

「大学のレポートで忙しいから。バイトもあるし」

後半は本当だった。もちろん受験勉強のことなどおくびにも出さない。

「アルバイトなんてしてる暇あんの。せっかく勉強しに岩手に戻ったのに……」

文生の両親は大学生活を経験していない。大学生と言えば四六時中、脇目も振らず学業だけに勤しんでいるものと思い込んでいた。アルバイトもサークルも恋愛も茶髪も、一部の不真面目な学生がやるものと決めつけていた。文生は疑いなく前者だと思われていた。だから親との電話は嫌なんだ、と文生は心の中でため息をついた。

「米あんのけ? 足りなかったら送っけど」
「いいよ。あんま家にいないから、どうせ受け取れない」

こちらは本当だった。そこから隣近所の愚痴が始まったので、文生は「ごめんいま友達と一緒だから」と嘘をついて電話を切った。いつの間にか大通りのアーケードはとっくに終わり、開運橋の手前まで来ていた。

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