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小説 開運三浪生活 50/88「定位置」

文生が徹夜で訳したこの日の長文は、京大の過去問とのことだった。道理で難しいはずだと文生は納得した。ある女子生徒が中本に指名された。初めはきれいな日本語訳がすらすらと読み上げられたが、途中で出てきた「produce speech」のところで中本の眼が鋭く光った。

「スピーチを生む? 何その日本語。それで意味伝わります? 話にならんね」

ただでさえ静かな講義室が凍りつく。

「speechを生むってどういうことですか? こういう英語をきちんと日本語にできるかどうかなんよ、できるヤツとできんヤツの境目は――わかる人おる?」

息巻く中本が、生徒たちの顔を見渡した。

「言葉を発する」

緊迫した静寂を破ったのは、中本の真正面に座る文生だった。昨夜、辞書を睨みながら何度も考え直し、練り上げた渾身の訳だった。中本の眼が一瞬止まり、そして表情がパーッと明るくなった。

「……ほらね。おるんよ、できるヤツ」

心の中で、文生は天高くこぶしを突き上げた。

結局、その後の文章の訳も文生が発表することになった。生徒が成果を出せば、自分のことのように嬉しい――。塾の講師紹介にもそう書かれているとおり、中本の反応は上々だった。講義の終わり、中本は生徒たちの前で文生にこう発破をかけた。

「今日おまえ、ブチよかったぞ。ええか、来週も絶対その席キープしろよ」

努力の跡を褒められると、人はさらに努力する。英文解釈の講義に対する文生はまさにそんな感じだった。完璧な訳を披露するため、火曜は必ず徹夜し、ふらふらになって水曜朝イチの英文解釈に臨んだ。最前列真ん中の席を確保するために、いつもより早くアパートを出ざるを得なかった。体力に自信の無い文生にはしんどかった。他の曜日より講義が少ない水曜だからなんとか耐えられた。

特等席に座るようになって何度目かの水曜の朝、文生が講義室に入ると定位置は果たしてほかの男子生徒に奪われていた。しまったと思ったが、どうすることもできなかった。文生は仕方なく、その生徒の真後ろの席に座った。

中本がやってきた。教卓に立ち、文生がいつもの席にいないことを認めると、あからさまにため息を吐いた。文生は申し訳なさと悔しさの中にあったが、プレッシャーから解放された気がしなくもなかった。定位置は奪われたものの、その後も英文解釈への文生のモチベーションは下がることなく続いた。いつしか七月も後半に差し掛かり、前期の講義は終わりに近づいていた。

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