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くうねるところにすむところ はたらくところにくらすところ わけるところにつながるところ  

 今はなきインデックス・コミュニケーションズ社から、2004~2006年に「くうねるところにすむところ」という、建築家が子どもの目線で、家について伝える絵本のシリーズが出版されていました。
 発刊のことばには、「いま、家文化はすっかり枯れかかり、(中略)急速に家は力を失いつつあります。」という危機感が示され、その衰退が大きな影を落としているだろう子どもたちに、「家の確かさと豊さと力強さを取り戻したい」とあります。このシリーズの視点を借りながら、「家」ってどんな「ところ」であろうとするのか、考えるための読書ノートをつけてみました。

図書館で借りた本
01:「家ってなんだろう」益子義弘著
03:「オキナワの家」伊礼智著
05:「集まって住む」元倉真琴著
07:「地球と生きる家」野沢正光著
08:「みちの家」伊東豊雄著
09:「中心のある家 」阿部勤著
amazonでポチった本
12:「向こう三軒両隣り」田中敏溥著

01:益子義弘著「家ってなんだろう」より

 木の話から始まります。大きな木がつくる木陰の心地よさ。そこに集まる人々。日本の家は、木を使って、大きな木陰をつくるように建てられます。木を長く使えるように、また、そこに住む人々の気が滞ることがないように、風通しを大切にし、とても開放的な「木陰」のような家づくりでした。
 壁で区切るのではなく、人が持てるくらいの大きさの石を縄で結んで置いておきます。「関守石」とか「留め石」と呼ばれ、そこから先には入らないでねという「しるし」。物理的な仕切りを設けなくとも、さりげない意思表示で人はメッセージを受け取ることができます。
 最近の家は、外の空間、環境からはどんどん閉じてゆき、内側は個室で区切るようになってきました。家の「間取り」は、そこに住まう一人一人の心地よい居場所をつくることであり、「人間:人と人の間」を考えることでもあります。居場所=個室ではない、家族としてお互いに気配を伝えあいながらも、それぞれの自分の場所をもてる家であってほしい。
 最初は、造成されたばかりの裸の土地も、夏にはたくましい雑草たちが茂り、木々は芽生え、季節を重ねるごとに大きく育ち、20年、30年あれば、自然は立派に戻ってきます。その場所に住まうことは、その場所で人が育つことであり、その場所のもつ「芽」を育てることでもあります。

03:伊礼智著「オキナワの家」より

 マングローブは、海水と真水が交わるところに育ちます。海と川の「あいだ」海と川がチャンプルーするところ。まるで沖縄のように。
 琉球の時代、唐による冊封(王として認められる)を受けて、中国やシャムとの貿易を行なった唐の世(ユー)、薩摩藩に制圧された大和世、そしてアメリカの世からまた大和世へ。沖縄は、それらを繋ぎ、チャンプルーしながら生きてきました。アメリカ世がもたらしたもののひとつに、スラブヤーと呼ばれるようになるコンクリート、コンクリートブロックでできた家があり、台風とシロアリに悩まされていたことからあっという間に広がります。
 それまで、伝統的な沖縄の住まいは木造でした。路地(スージ)から屋敷に入るところに、屏風(ヒンプン)という衝立のような壁があります。石積みや植物など、素材は様々ですが、目隠しと魔除けをかねながら、街と家の内側をゆるやかに仕切るとともに、(扉のない)空間は、街を内に引き込むような装置ともなっています。ヒンプンを右に回り込むと客間のあるハレの空間に、左に回れば炊事場や井戸があり、普段の暮らしを行うケの空間があります。
 古い集落は、(台風から守るために)目の高さの石垣と肉厚の葉っぱが密生したフクギの防風林で包み込まれています。村として、家として守る(分ける)ものと、ヒンプンのようにつながる区間。屋敷囲いに挟まれたスージを歩いていると、その村の先祖が祭られたクサテの森につながり、街と家、家と家、人と人、人と神様がやわらかに連続するグラデーションのような境界域を浮遊するようにスージ歩きを楽しめます。
 沖縄の家は、真ん中にトートーメー(仏壇)が鎮座して、先祖に見守られる中での開放的な空間になっています。雨端(あまはじ)といわれる大きな軒下空間があり、その外でもあり内でもある空間は、近所の友達と遊んだり、うりずん(春先から初夏)や夏を迎える前の「若夏」など季節の合間を感じるところでもありました。また、沖縄のあちこちには「カー」と呼ばれる湧き水があり、地下水をわけあって生活していました。
 ヒンプンによる空間のネットワークが、街と家との程よい距離を生み、外と内との豊かな関係をつくりだすグラデーションのような「あいだ」の空間が、オキナワのまちや家の魅力ではないでしょうか。

05:元倉真琴著「集まって住む」より

 昔、まちには何でもあって、八百屋や床屋などのお店屋さんや、印刷屋や紙の裁断屋、製本屋、畳屋や建具屋などさまざまな大人たちが働いていました。人々は家というよりまちに暮らしており、生活することと働くことは同じところで営まれ、近所の人々は助けあって暮らしていました。路地は家の続きのようで、置かれた植物も仲間ですし、道は時としてお店にもなりました。漁港や農家においても、その生活と仕事は連続しており、共に働くことも含めての「集落」がありました。
 仕事の仕方が変わり、職場と生活の場が切り離され、生活の場のみを、限られた都市空間で効率よく大量に生み出すために集合住宅(団地)が造られました。計画するということは、とても難しいことです。たくさんの家やみんなで使う施設を一度につくることは、長い時間をかけてそこに住む人々が自らの思いを反映する集落とは違って、もともと不自然なことです。ダイニングルームやリビングルームなどが提案され、イスに座って食事するスタイルが広まって行きます。また、当初は団地内に設けられた商店や床屋も、効率のいいスーパーマーケットやショッピングモールに吸収されていきます。個人商店の馴染みの顔は見れなくなってしまいました。
 団地は、画一化された住居ではありましたが、40年もたつと建物の間に植えられた木々が育ち、夏には涼しい木陰、秋の紅葉など自然の恵を与えてくれます。団地の住人は、大掃除や花の手入れなどのために話しあい、ルールを作ったり多くの人と関わり生活を楽しめます。とありますが、これは少し昔の話な気がします。今では、共有空間のメンテナンスは外注(お金で解決)してしまうのが主流じゃないでしょうか。
 お話は、緑と道を共有する集合住宅の提案へと続きますが、作者も「いきいきとしたまちとは、歩いていて、住んでいる人や働いている人の様子がわかるまち。それぞれの人が自分をあらわすことができるまちです」「働くことと住むことが一緒になった時、かつての下町のような、まちに住むことの楽しさが戻ってくるはずです」と言っています。その可能性に、都心の大きなオフィスに集まらなくても自分の家でできる仕事が増えていること、何軒かの家族が集まったコーポラティブハウスや一軒の家を共有するシェアハウス、コモンキッチンやコモンリビングなどを持ったコレクティブハウスなどが生まれてきていることをあげています。
 「まちに暮らす」ことは復活するのでしょうか。仕事と生活の分断こそが暮らしを変えてしまったのだとすると、生活空間をコラボレーションするだけでは難しい。資本の効率性で集約化されてしまった様々な仕事を、もう一度それぞれの手に取り戻すことから始めなければならないのではないでしょうか。

07:野沢正光著「地球と生きる家」より

 家はその重さ、木造でも約76トンにもなる多くの資源を使っています。その家が廃棄されると76トンのゴミになりますが、長く使うことにより、また自然に戻る材料を選ぶことにより、一年あたりのゴミの量は減らせすことができます。また、日本の木を使うことにより、運搬でのCO2排出を減らすとともに、国内の林業によるCO2の取り込みを促進し循環させることができます。
 古墳時代の竪穴住居は、地面に穴を掘り、草の屋根をかける土間の家でしたが、冬は暖かく、夏は涼しく快適だったと思われます。時代が経って、柱と梁を持った家が造られるれるようになっても、草屋根は村人総出で造られました。
 地球と生きる家にするために、太陽熱に注目します。屋根で温めた空気を床下に送り込み基礎のコンクリートに蓄熱。その温度を室内に還元するソーラーシステムを造りました。この装置は、外の空気を取り入れるので、室内はいつも新鮮な空気でいっぱい。暖房器具でも、煙突ストーブは、部屋の空気を燃やし煙突から勢いよく排出するので、灯油ストーブや外の空気で燃やし熱だけを室内に伝えるFF式と比べても、換気される分、室内の空気はきれいな状態となります。
 何よりも大切なのは、地球とともに生き続ける環境を造っていくこと。そのためには、独創的な考えや技術がもっともっと必要だと思います。

08:伊東豊雄著「みちの家」より

 この本は、メッセージというよりインスパイアするための絵本なので、読書ノートをとるのは難しい。伊東氏の作品である中野本町にある「白いみちの家」せんだいメディアテーク「チューブの家」をはじめ、「大きな巻き貝の家」「ワープするみちの家」「音の洞窟」、そして渋谷駅の入り組んだ立体的なみちを「脳のネットワークのみち」に見立て、家から学校、公園や駅などたくさんの建築が全部組み合わされてひとつの建築になってしまった「みちの街」、「未知の家」では、「あなたはあなたのみちをつくることができる、あなただけのみちをデザインできるのです」と語られます。
 自由に道を作ることはできるとしても、建築家のイメージで造り込まれた空間は、そこで暮らす人々の多様な視点を排除してしまわないでしょうか。造り込まれた空間としては、建築家の西沢立衛(にしざわ りゅうえ)とアーティストの内藤礼による豊島美術館が思い起こされますが、その空間そのものが目的で、そこに訪れる場合は、建築とアートの主張こそがメッセージなのですが、暮らしや図書館、音楽といった目的を入れる器としての建築としては、器の主張が強すぎるのではないでしょうか。

09:阿部勤著「中心のある家 」より

 著者で建築家である阿部勤の自宅を丁寧に解説した本。二重に囲われたコンクリートの壁面を持ち、2階の外壁は木とガラスで作られており、外の木々の風景と一体化した明るい空間は、3方をガラスで囲われた縁側のような場所になっています。また、玄関やピアノ室の吹き抜けが、家の一体感を生み出し、一階の中心にあるリビングからは、東側のピアノ室と西側のダイニング、南側の土間から庭への景色につながり、北側には大きな絵が飾られ、床の間の役割を果たしています。
 コンクリートで包まれた内側の中心から、2階の縁側、その外の緑の植栽へと空間はつながり、十字路の角にある敷地の中に、建物をずらすことにより生まれる三角形のスペースに欅(けやき)を植えて、街行く人が、その裏を通れるように、木陰で休めるように設計され、大きく育った欅は街のランドマークになりました。
 自分たちが暮らす空間として、自分で設計し、暮らしながらソファや植栽を作り込み、子供のための空間を工夫し、子供が家を離れた後は、自分の場所として使う。どうしたら暮らしを楽しむ家なるのか、家を設計するという仕事と生活の場がオーバーラップしている幸いな場合の紹介でした。
 家をつくることは、建築家のデザインが住まう人の思いを引き出し、暮らしながら育ていくことに他なりません。一人で完結すれば楽なようにも思いますが、複数の思いがぶつかりあって調整する中で生まれていくる新しい視点は望めない気もします。

12:田中敏溥著「向こう三軒両隣り」より

 私が暮らした家は、道の両側に互の壁と壁をぴったりとくっつけて建ち並ぶ奥行きの長い町屋で、「通り土間」と呼ばれる通路が表の道から裏の畑まで抜けており、近所の人たちは通り土間に入り込んで、囲炉裏を囲み、世間話をしたり、お茶をご馳走になったりしていました。
 表の道や路地が私たちの遊び場で、町内の子供たちは学年を超えて一緒に遊びました。道は暮らしを支える場で、豆や梅、カンピョウや魚のヒラキの干場であり、梅雨明けには畳が干され、行商人が店を開き、夏になると縁台を出して夕涼みをする、安全で自由に使える人間のための場所でした。
 道の主役はクルマにとって代られます。向こう三軒両隣を繋いでいた道から、子供たちや人々の暮らしが締め出されてしまいました。そんな街に対して開かれていた家も暮らしも閉じられて、無関心だったり、自分勝手だったり、文句を言ったり、てんでんバラバラに。人の心には、「仲良くしたい」という気持ちと、そのことが「わずらわしい」と思う気持ちが一緒に住んでいて、切り離すことができないのだと思います。
 家には、隣りの家との境目と道との境目との2つの境界があります。この
2つの境界のあり方を家の設計と同じか、それ以上の努力をして考える必要があります。道を歩いている人がつまんで食べてもいい実をつける木を植える。道からの眺めを意識して、窓に花置き台をつくる。お金を出し合って、街角にベンチや素敵な街灯を建てる。また空中を走る電線を埋設するという手もあります。街路樹がコナラのような落葉樹の場合、管理が大変ということで切ろうとなりがちですが、向こう三軒両隣りでの長い時間の話し合いを経て、全員で残すことを決めました。街の景観を美しくしていくことは、人の暮しを心地よくするためにとても大切なことですし、コナラの木はもっと大きなことを与えてくれることがわかりました。
 道であったら挨拶をする。立ち話をする。道を隔てた向こうと両隣りの境界に気遣いをする。自分たちのプライバシーを守る閉じた部分と、ご近所との交流ができるようにする開かれた部分とを考えながら工夫をする。それが私の設計方法です。
 道に対して開かれた、舞台にもなる大きなテラスを設ける。ミニ雑木林や緑の壁、緑の棚、屋根付きのカーポートは道ゆく人が雨宿りができるように配置されます。境界に塀を作るのではなく、幅が2mの共有の路地として、玄関をこちら側に設けたり、家の隙間を有効利用できるよう勝手口のあるサービスヤードとしました。
 最近は、お年寄りの一人暮らしや、共働きの若い夫婦なども増え、お年寄りの様子を気遣ってあげたり、小さな子供を預かったり、防災や防犯にも気を配れる、お互いの様子や気配がわかるぐらいの閉じた開き方、柔らかく閉じる設計が大切です。
 自分だけでなく、みんなのことも考えながら、
 一軒だけでなく、街並みのことも考えながら、
 今日だけでなく、未来のことも考えながら、家のことを考える。

ノート雑感

 暮らしの場にあった職場としての役割が失われ、私たちは、仕事に出かけていくようになりました。近所にあった店主と顔見知りだったお店はなくなり、生活必需品を買うにも、スーパーマーケットやショッピング・モール、コンビニまで、場所によっては車で出かける必要があります。立ち話に花が咲いたり子供たちの遊び場だった道は、いつでも車が通れるように空けておかなければならなくなりました。住宅も高性能・高機能といって環境から切り離されて閉ざされてしまい、防犯のためにと塀を高くし、縁側や軒下といった外と内との曖昧な境界も消えてしまいました。都会でも田舎でも、切り離されて、孤独になってしまったのは、人だけではなく家もなんですね。暮らしの場であり職場でもあった賑やかな町も、孤独な家の集合体に変容してしまい、いま、家文化はすっかり枯れかかり、急速に力を失いつつあるのでしょう。

 そういえば、京都や東京の佃に残る路地の町、瀬戸内海の男木島のように島の限られた土地に積み上げられるように作られた、人がすれ違うのがやっとの路地で構成された町、さらには、昔旅したことのあるベネチアも自動車の入れない街で、そこに住まう人々には、向こう三軒両隣りは健在なのかもしれません。そのまちに訪れた時に感じる、家と家、家と人、人と人の距離感。その懐かしさを伴う高揚感のような違和感の理由がわかった気がします。

 空間設計だけを考えると、ショッピングモールやディズニーランドだって車を排し、人のためのハレの空間が演出されています。路地空間を模した飲食店街など、それなりの楽しさはありますが、そこに暮らしはありません。
 そこにあるのは消費とそのために雇用された仕事だけで、生産の場でもない。一時的に道路を閉鎖してお神輿のために賑やかだった街も、祭りの終わりとともに主役の座を自動車に引き渡します。大学でも構内に自動車を入れるようになって、なんとなくたむろしていた学生たちの居場所がなくなった気がします。個々が所有権を主張し、境界を塀で囲ってしまった結果、町は不可侵の他人の所有地の集合体となってしまいました。道路は自動車に占有され、公園はクレームを回避するためのルールで縛られている。ずいぶん窮屈な社会になってしまったものです。

 向こう三軒両隣りが緩やかにつながる町並みは、実は自動車を入れないことで実現できるかもしれません。ただし、ひとつの区画の規模ではなく、ある程度の町の規模でなければならないでしょう。多様性こそが、継続性を担保します。町の周辺に自動車のアプローチは留められ、駐車場から自宅までは、自動運搬ロボットが荷物を運んでくれます。家と家の境は、共同所有された植栽や小川で緩やかに仕切られ、本来の役割を取り戻した道では、車椅子でも乳母車でも安心して往来でき、挨拶が交わされ立ち話ができる町。中には、この町にアトリエを設けるアーティストがいるかもしれませんし、スマホアプリを作る会社を開く人や、カフェを開く若者、書道教室を開く老人、お昼にお弁当を届ける人がいるかもしれません。そのうち、町の人々が持ち寄った私設図書館ができる頃には、この町らしい新しい学校も生まれるかも。家のプライバシーは守られますが、それ以外の空間は、様々な気遣いや気配が交差する「つながるところ」であっていいのではないかと思います。ううむ。規模が実現を妨げますね。あと、生活を支える職場を織り込むことは、どこまで可能なのかが問題でしょうか。

くうねるところにすむところ
はたらくところにくらすところ
わけるところにつながるところ


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