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「生きる」を考える大事なきっかけ

愛知県豊田市の松平郷にある真宗大谷派の専光寺。ご住職の華埜井究(はなのい・きわむ)さんは、この山間の集落にある、壮大な大屋根の本堂を持つ寺院を守ってきた。軽快で洒脱な語り口の間から、襟を正して仏教に向き合ってきた自負、熱さが伝わってくる。「葬式坊主と言われることを恥じるな」という。


徳川ゆかりの街道にある集落

――専光寺の周辺はとても自然が豊かなところですね。

「松平の滝脇町は、豊田市と岡崎市との境にある山の中の集落です。地元の滝脇小学校が野鳥の保護活動で日本一の表彰を受けて知られています。私が卒業して数年たってから始まった取り組みで、残念ながら、私は野鳥のことはほとんど知りません(笑)」

遠景。中央の大きな屋根が専光寺の本堂

――豊田市の松平郷は、江戸時代を築いた徳川氏のルーツといわれている松平氏の発祥の地ですね。

「松平郷と岡崎の大樹寺を結ぶ松平往還という街道がかつてありました。松平郷の中心から南へ向かって山をひとつ越えたところにあるのが滝脇になります。さらに岡崎市との境を流れる郡界川を越えて、山をひとつ越えるとブドウで有名な駒立へ抜けていくルートです。徳川家康が生まれた時に松平東照宮の井戸で産湯を汲んで届けたといわれていますから、おそらくこの道を通ったんでしょうね」

住職の華埜井究さん

――専光寺は松平氏と関係があるんですか。

「十数の松平氏の中に滝脇松平氏があります。ここに跡取りができないということで、今の石川県、加賀の専光寺という大きなお寺の二男が、武家の跡取りとなるべくして、滝脇松平の養子になりました。
ですが、その後に実子が生まれて跡取りができたということで、家督を生まれた実子に譲って、出家してお坊さんになることになり、加賀の本坊の許可を得て、滝脇に同じ名前の専光寺ができたのだと聞いています。
開基は1539年。およそ500年前のことです」

専光寺の歴史が絵入りでまとめられた巻物

カーデザイナーを夢見た少年

――地元の小学校をご卒業ということなので、ご実家の専光寺を継がれたんですか。

「男2人、女3人の兄弟の末っ子で、16歳上の兄が継ぐ予定だったので、まったく考えていませんでした。私は今年3月に69歳になりましたが、中学生の時にスーパーカーブームがあった世代です。車好きにも、メカニックが好きだとか、いろいろありますが、私は子どものころから車の絵を描くことが好きだったんですね。なので、車のデザイナーになれたらいいなあ、という夢がありました。ランボルギーニ・カウンタックとかを初めて見て、そういう方向にいけたらいいなあと勝手に思っていたんですけど。
ただ、田舎に住んでいるもんですから、どうしたら車のデザイナーになれるのかという情報もなく、今みたいにネットで調べられる時代でもありませんでした。分かんないまま、南山大学のドイツ学科に行って、車好きだから輸入車を扱う会社に入りたいと考えていました」

――そこから住職になられたのは?

「大学2年の時に兄がガンで亡くなりました。兄は当時37歳で、東京の大学でフランス語を教えていました。専光寺は三河山間部の真宗寺院では、大きな方のお寺で、兄は大事な跡取りとして、特におばあちゃんに大切に育てられた人だったので、兄の死は専光寺にとって考えてもいなかった非常事態でした。
私はカーデザイナーになれるならそちらの道を選んでいたかもしれません。しかし、私は父親が50歳近く、母親も40歳すぎで生まれた子供で、親も高齢になっていたので、私が専光寺から出でしまうわけにはいかないなあと思い、結局、就職はせずに、住職を継ぐことに決めました」

本堂

継ぐからには「ちゃんとした住職に」

――そういう経緯でお寺を継がれたのですね。

「父親が住職をしていたので、大学を卒業した後、自由になる時間がたくさんあり、自宅から岡崎市に通って学習塾を始めました。最初は矢作の勝蓮寺さんの一角を借りて、途中からは借りたアパートで、10年間くらい小中学生に教えました。
私は昭和62年に住職になったのですが、その子たちがいまだに僕との付き合いを大事にしてくれるんですよ。もう50歳をこえて、孫のいる子もいますが、コロナ禍の前までは、みんな家族ぐるみで、報恩講の時におそろいのTシャツをつくって手伝いにきてくれたり、除夜の鐘の時にも来てくれたりしました。これは私の人生の中での最大の財産です」

――住職になるにあたり、どんなお気持ちでしたか。

「継ぐと決めた以上、ちゃんとした住職になろうと思いました。
お寺というのは、きれいなイメージがあるから、なるべくそうしたいと思って掃除をします。お参りの格好のときは食べ物屋には入りません。見られている仕事なので外面(そとづら)を気にするのは必要です。外面って否定的な意味で言っているのではありません。
僧侶の格好をしていると年齢に関係なく高座に据えていただくのですが、それを当たり前だと思っちゃいけない、そのためには立ち振る舞いから気にしなきゃいかん、と思うんですよ。箸の扱いもとても気にします。ご飯を残すなんてことはしませんし、お茶碗も必ずきれいにして帰ります。
これは仏様が見ておられるという信仰っぽい話じゃありません。普通の人が見ているという、職業上の最低の礼儀だと思うんですよ」

山門へつながる石段(左)、山門(右)

お寺でやるべきことは葬儀

――矢田石材店がお寺でのお葬式をサポートする「お寺でおみおくり」の賛同寺院になっていただいています。

「葬儀でお経を読むときは、最初の発声でみなさんの気持ちをつかまないといけない、という気持ちでやっています。声楽家もきっと同じですよね。
お寺でやるべきことは葬儀です。
葬式坊主って否定的にいわれることがありますが、なんでいけないの?ってことです。
生きていくことだけが命だと思っていた時代は終わりました。生まれてから終わっていくのが命です。葬儀というのは、人間にとって、命をしまうことは、だれにでもあるということに気づき、生きていくことを考え直す大事なきっかけなんです。
だから、葬式坊主と言われることを恥じるなと思っています」

実社会を知り、時代に合わせる

――これからはどんなお坊さんが必要だと考えていらっしゃいますか?

「住職は専業にこだわらず、兼業というのがあるべき姿なのではないかと、個人的に思っています。実社会での問題を経験して、いろんな悩みや問題も理解できる住職であるべきだと思います。
そういう意味で、私は一般社会に出なかったのでダメですね(笑)。会社に入って上司に鍛えられたり、いじめられたりしたこともないし、部下も持ったこともないので。
専光寺は120年くらい前に本堂が焼失して、ふた回りくらい大きな本堂を再建したんですが、それは当時の時代が大きな本堂を求めていたと思うんですよ。今、本堂を建て直すのだったら3分の1くらいに小さくするでしょうね。
時代に合わせていくのは当たり前で、できる範囲で変わっていくしかない。
私はもう力んだところで、力が出ないし、肩の力を抜いてやっていきます」

近くにある二畳ケ滝(左、中央)、専光寺の前にある観光案内(右)

寺名:専光寺
宗派:真宗大谷派
住所:愛知県豊田市滝脇町藤治洞3番地


永代供養のついた安心のお墓「はなえみ墓園」。
厳かな本堂でのお葬式をサポートする「お寺でおみおくり」。
不安が少なく、心のこもった、供養の形を、矢田石材店とともに考える、お寺のご住職のインタビューをお届けします。
毎月の第2、第4月曜日に更新する予定です。

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