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ちょっと自己分析した結果、自分の感性に引いてる話

話題は鳥山明先生が亡くなった事から始まる。

前提条件として、私はドラゴンボールが好きすぎて、自分の二次創作も解釈違いになりそうで手を出せていない過激派一歩手前で踏ん張っている。
人の二次創作は恋愛でなければ違和感を感じながら読めるので、踏ん張っている表記だ。
まあ、GT以降のアニメオリジナル展開は途中まで見ていたんだが「好きな人もいるだろうけど、私向きではない」と視聴をやめた面倒くさいオタクというやつである。

そんな奴が、先生の悲報を聞くとどうなると思う?

私はTwitterX(以下Twitterと呼ぶ)で3日前の昼に悲報を知った。
無だった。
この無とは感情が無くなると言う無ではなく、動きが無かったという意味の無だった。
「実感が沸かないのかな?」
鳥山明先生は雲の上の存在だ。今回はマジモンの雲の上に行ってしまわれたが。
「一周回って無なのかな?」
心配してくれる友人たちにはそう説明してみた。
友人の一人は「それ、後で実感湧いて辛くなるやつじゃん」と言って更に心配してくれた。

うん、まあ、それで3日経った。

Twitterに流れてくる先生のエピソードにファンとして喜んだりしたりして、偲んでいるが…
私の感情は何故こうも凪いでいるのか。
と言ってもマジで全部凪なのではなく、悲報聞いた当日に心配してくれた友人に通話に誘ってもらい、その中で涙は流れたというのはある。
でも、その時も心は無だか凪だったし、うあー!悲しいー!という感情にもならなかった。

だが、まあ私は祖父が亡くなった時には、斎場以外では普通だったのを思い出したので、実物(というのも変だが)を見るまでは感情が揺さぶられないのかとも思った。

でも、声優さんの滝下さん(無双の司馬懿の声の人)の時は、悲報を知ったとき一瞬意味が分からずその後でもう新しい声が聞けなくなるのだと悲しくなって一人で泣いたりもした。
幸運が重なって、数度一緒に仕事していたから知らない人でもなかったというのも大きいかもしれないが。
今書いてて思ったが、じいちゃんの時より感情が揺さぶられてるやないか。じいちゃんごめん。

と、ここで変なことに気付いた。
滝下さんが亡くなった時は、新しい声が聞けない(作品で聞けない)となったのに、鳥山先生の時は新しい作品が見れないってならなかったな?

これに気づいた私は自己分析を何となく始めていった。
なんとなくの自己分析なので、自己分析のうまい人から見るとなんかこう、ツッコミどころ満載かもしれない。
そして、その分析の結果、これじゃないかと言う感性に題名の通り自分で引くのだが。

簡単に言えば、バイブル化。日本語で言えば聖書化。偉人や著者はすでに亡くなっている(キリスト教で言うと正確には復活しているので偉人は残っているがこの場ではこの表現を使わせていただく)書物である。

私は確かにドラゴンボールをバイブル本だと言ったこともある。だが、この自己分析をした後に、それが言えるか?と言われると多分言えなくなっているかもしれない。言っているかもしれないが。

書きながらまとめているのでごちゃごちゃしてきたが、つまり、私は鳥山明先生を現存する存在だと思っていなかったのではないかと考えに行き着いた。
雲の上の存在だと書いたが、この考えに行き着いた瞬間「なんでや」となった。

この考えに行き着いてしまったので、何処かに吐き出したくてnoteを活用させて貰っている。
簡単に書くと、私はどうやら鳥山明先生が亡くなっている感覚で生きてきたらしい。
亡くなっている人の訃報を改めて聞いたと言うのが今回の「無」につながるのかもしれない。

私はドラゴンボールが好きだ。終わった時は子供の頃(小学生だったかな)だった。悟空が空を飛んでウーブと去って行ったのを寂しく思った。
GTが始まった。喜んだのもつかの間、鳥山先生の手から離れてるのも知った。
以降の作品は、鳥山明先生がデザインはしてもドラゴンボールは集英社管轄になっていると知った。
ドラゴンボールのハリウッド実写化は先生が「別のドラゴンボール」と言う程度の出来だった(結局見ていないが過激派の私が暴れそうなので見なくてよかった気もする)

ドラゴンボール作品が好きだ。
だけど、鳥山明のドラゴンボールが更新されなくなって久しかった(ネコマジンなどのゲスト出演除く)
だからバイブル(聖書)化したのかもしれない。
ドラクエは番号飛び飛びだけどやっているので、キャラデザの鳥山明先生は身近にいた。

ここまで書いて「ええい、まどろっこしい!お前がドン引きした感性をさっさと書け!」と自分の中で自分が騒ぎ出したのでもう書いてしまおう。

私は、原作者鳥山明のドラゴンボールが好きだった。だから、私の中でドラゴンボールが完結したと同時に、私の中の鳥山明先生は亡くなっているに近いものになってしまっていたのだ。

この結論に至った時は私はドン引きした。面倒くさいオタクとは自認していたけど、狂信者かな?と。グッズは集めてない系の本読み込み系タイプだけども。いや、そんなの関係なく存命時から居ない扱いこっわ。

と、3日目で自己分析をしてしまったので、「今の思いをnoteに書くとか」とアドバイスしてくれた友人の言葉に従い書いて吐き出したけど、友人もこんなのが出来上がるとは思っていなかっただろう。ごめんね。

こういうオタクもいるんだな。自分にドン引きしてかわいそ。とでもこれを読んでくれている人には是非とも生温く見なかったことにして欲しいが…
もし、大大大好きな作品の作者が亡くなって、感情が無になってしまった時、悲しめなかった時、こんな奴もいたな。と思い出して欲しい。気持ちの整理(自己分析)をしていくと、意外なところで理由があったりすると。
それぐらいでしか、この読んでもらった文章が役に立たない気がするし、マジモンの「ドン引きした。誰か聞いてくれ」文章なので申し訳ない。

とりあえず、Twitterの誰かが呟かれていたが、死後の世界をポップに描いてくださっていたので、先生にはあのあの世に行って、天国行きになって欲しい。
界王様のところ蛇の道で遠いし、地獄は地獄してるし、天国の描写は原作ではなかったけど…やめよう。厄介なオタクが顔を出してる。

どーにもしまらないが、結びの言葉として…
鳥山明先生、お疲れ様でした。連載中はペンも持てなくなる程の恐怖と戦ったと聞きます。
暫くは鳥島さんもそちらに行かないと思いますので、ボツのない自由きままに絵や漫画を描いて、趣味のことに没頭して楽しく暮らしてください。
あなたの作品のファンより


ところで、結びの言葉を書いてたら、何故か涙が止まらなくなった件について。
まだ自己分析が足りなかったようだ。
悲しいとも辛いとも思ってないのに不思議だな。

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