拙い文章を書き続けるということ
文章を書いている際には気づけない文章の拙さというものがある。その拙さは、自身の文を読み返して初めて気づくことができる。
拙い文章を見ると、毎度自身の力のなさに萎え潰され、自信を失ってしまう。
完成した拙い文章を書き直すということはあまりしない。もちろん執筆中に気づいた誤字脱字や表現の欠陥に手を加えることはしょっちゅうなのだが、「よし、これで完璧だ」と思い投稿した文章を見返した時に「ああ、駄文だ」と思ったとしても書き直しは絶対にしないという意識は常にある。
大きな理由として''めんどくさい''という惰性の念は大いにはらんでいるのだが、それに並ぶ理由として、新鮮味が失われた料理に手を加えることが時間の無駄でしかないと思っている節があるということが挙げられる。
文章を書くということは料理を作るということだ。
新鮮な食材という思想をまな板に並べ、包丁という思考で食材を切り刻み食べやすいようチューニングする。フライパンや鍋というメモ帳で料理を形作り、完成した文章は料理になる。
料理に限らず食材もだが、日が経てば経つだけ腐り食材としての価値を失ってしまう。
食材は思想で考えだ。昨日考え文にした思想も、次の日には真新しい思想として取っ替えられているかもしれない。昨日書いた文章の根底にあった思想が、今この瞬間には別の思想として脳にへばりついているかもしれない、つまり、料理は既に腐り死んでいる。
昨日書いた文章を書き直すということは、腐った料理を新鮮な料理に買い換えようとする愚行である。腐った料理は新鮮な料理に戻りはしない、腐ったものは腐ったまま腐敗していくだけだ。
昨日書いた文章が駄文だと思うなら、新しい文章という料理として記事にして書き始めればいい、アンサー記事みたいなもんかな。その方が昨日の思想と今の思想が混ざり合ってぐちゃぐちゃになった料理を作り上げるという胸糞な展開にならずに済む。
人間の思考は移り変っていく。過去の思想が間違いだなんて、誰にもわからない、今だって間違いなのかもしれないのだから。
過去の料理が拙くゲロ不味くても、下手に手を加えず、腐りに腐り切って食べ物としての原型を失うくらいまで放置してやればいい。
過去の記事を書き直すくらいなら、新しい思想で新しい思考を用いて0から100を生み出した方がよっぽど生産的だ。「過去の拙い料理を手直ししなきゃ…」よりも「今から作る料理を全力で美味くしてやる」というハングリー精神に価値があり、そのハングリーを繰り返した末に、絶品で至高の五つ星料理が待っているのではないかと思う。
——————————
YouTubeやってるので見てね!↓
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?