見出し画像

楽譜のお勉強【74】ロジャー・スモーリー『エコー II』

ロジャー・スモーリー(Roger Smalley, 1943-2015)はシドニー大学などで教鞭を執ったオーストラリアの作曲家です。作品は多くなく、派手さはありませんが、一作一作丁寧な作曲姿勢で明瞭な主張を持った作品を発表しました。本日はチェロ独奏とディレイ・システムのための『エコー II』(»Echo II« for cello with stereo tape-delay system, 1978)を読んでみたいと思います。

スモーリーは3曲の『エコー』という器楽曲を残しており、それぞれチェロ、トランペット、ホルンのために書かれたディレイ・システムを伴う独奏曲となっています。番号は第2番から第4番までで、第1番は現在彼の公式の作品リストにはありません。現存する最初の『エコー』はチェロのための音楽です。ロハン・デ・サラムのために作曲されました。

演奏に必要な電子機器や仕組み(回路)、配置などがA3サイズ2ページに渡って細かい字でみっちりと書かれています。作曲年が1978年ですから、当時の技術で磁気テープを用いて録音したものを遅れて再生するシステムで演奏することを想定した記述になっています。今日ではこの図案を元に、パソコンに録音してデジタル制御で演奏すると思います。生楽器のチェロもアンプリファイされます。チェリストは舞台中央で演奏しますが、アンプリファイされた音はチェリストの背後のスピーカーから再生されます。ディレイは2つの時間軸があり、第1ディレイは独奏の2.25秒後に客席から見て左側のスピーカーから、第2ディレイは4.5秒後に右側のスピーカーから再生されます。録音再生はモノラルで、3つのスピーカーがそれぞれ1声の発音点のように扱われています。

スコアは演奏用の独奏譜と三声のカノンとして書かれたスコア状の別冊楽譜のセットになっています。演奏には1段の独奏用楽譜を用いれば良いのですが、意図されている音楽を確認するのにスコアが付いているのは便利です。スコアの方は、譜めくりの配慮がされていないので、演奏に使うのには不向きです。

この曲での記譜の工夫はテンポにあります。ディレイのタイミングは加減なく固定なので、そのタイミングを計りやすいユニットが拍子、テンポとしてあてがわれています。音楽の様子が変更するタイミングでセクション分けとしてリハーサル番号が付いています。AからQまでの17の部分からなっています。拍子は固定ではないのですが、小節をディレイの入るタイミングのユニットとして用いており、変拍子に合わせてテンポ記号が細かく変わります。また、拍子によっては扱いにくいテンポを算出することになります。冒頭は3/4拍子でBPM=80です。これは、1小節がちょうど2.25秒になる長さです。さらに1小節進めば、2.25秒の2倍の4.5秒からスタートする第2ディレイが開始するように整理されています。

最初の拍子の変化は10小節目に起こります。5/8拍子になるのですが、それに伴いテンポが変更されます。すなわち、2.25秒を3分割したものが3/4拍子であったので、ここから先は同じ単位時間(2.25秒)を5分割することで、小節=ディレイのタイミング構造を維持しています。このことから、テンポ表記が四分音符=66.6という異様なものになります。同様に16小節からの7/8拍子では93.3、20小節からの4/4拍子では106という具合に単位時間を小節の分割に当てはめたテンポが与えられるのです。

このようなテンポの操作とディレイの関係に人間の生演奏が介在することが、ある種の魅力を作り出していると強く感じる箇所があります。曲の最初は3/4でBPM=80、なおかつロングトーンから始まるので、かなり厳格なカノンが聞こえます。5/8拍子などはテンポ表記上難しく見えますが、単位時間三連符だったものを単位時間5連符に直しただけと考えることができ、このくらいのテンポ・モデュレーションならば演奏家は正確に再現します。ただし、セクションGから始まる11/16拍子ではそうはいきません。これは八分音符=146.6というテンポが表示され、このテンポを正確に捉えることが難しいので、先行するセクションのように単位時間2.25秒を分割する手段で演奏する方がうまくいきそうですが、2.25秒を均等に11等分するのはかなり高度な時間感覚です。ご紹介している動画音源では、ほとんどの箇所がかなり正確で厳密なアンサンブルに聞こえるので、奏者のテンポ感覚は極めて優れているようですが、このGの部分だけは、八分音符の刻みとたまに入る16部音符であるのに、もっと微細なズレが生まれています。このことはディレイ・システムを採用した魅力と言えます。なぜなら、ほとんどの箇所が八分音符の刻みで、小難しい連符も入れていないこのような箇所は、3人の奏者が演奏する場合には例え11拍子だろうときっちりアンサンブルが揃うはずだからです。ここではそのような微細なズレが楽しめるはずだと作曲家も睨んでいた形跡があります。セクションGでは、他の箇所では採用されていない特殊な記譜法がセットになっていて、演奏する運弓ポジション(駒の近くや指板上)の推移を線グラフ状に別の段を設けて示しているのです(初期のペンデレツキがよく用いた記譜法です)。繊細に変わっていく音色と微細なズレは親和性が高く、複数の奏者が演奏するアンサンブルとは違ったアンサンブルの可能性を感じさせる音楽になっています。

その後、6連符の疾走する下行音階など、技巧的なパッセージが繰り広げられますが、単位時間を割り切りやすいテンポ設定で、精緻なアンサンブルに聞こえるものです。セクションKからまた複雑なアンサンブルが始まります。ここはテンポがBPM=120でノリで感じとりやすいのですが、単位時間をこのテンポに収めるために拍子が変わっています。4と1/2拍子になっています。つまり、三連符のちょうど半分の拍(2音目と3音目の間)に第1ディレイが始まることになり、不可思議に渦巻く感覚が生まれます。これも人間によるアンサンブルではかなり工夫が必要な複雑なリズム操作になります。

曲は全体的に小気味よい盛り上がりがあって、コンサート・ピースとしてよく成立していますが、この音楽の魅力はその点ではないと思いました。ディレイ・システムはテクノロジーによる楽曲の操作としては最もシンプルなものの一つです。スモーリーの『エコー II』もさらりと聴いていると、人間の奏者3人で演奏しても一緒のようにも思える佇まいを持った音楽です。しかしいくつかの箇所で見られる効果は、テクノロジーが作り出す音楽の可能性について慎重に洞察した作曲家の姿勢が透けて見えます。私自身、電子音楽を少しだけ勉強しましたが、現在は書く機会がほとんどありません。しかし、作曲家がテクノロジーにどう向かい合っているのか、考えることを止めるべきではないと感じますし、またそのうち電子機器や電子計算機を用いた音楽も書きたいと思っています。スモーリーの作曲は上品で、その姿勢に共感しました。

*「楽譜のお勉強」シリーズ記事では、著作権保護期間中の作品の楽譜の画像を載せていません。ご了承ください。


作曲活動、執筆活動のサポートをしていただけると励みになります。よろしくお願いいたします。