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楽譜のお勉強【35】ケヴィン・ヴォランズ『弦楽四重奏曲第4番「ラマヌジャンのノート」』

ケヴィン・ヴォランズ(Kevin Volans, b.1949)は政治や経済の状況が現在でも西欧諸国とはかなり事情が異なる南アフリカ共和国出身の作曲家です。現地のヨハネスブルクで学んだ後、スコットランドに留学します。その後、彼が学生だった当時もっとも現代の新しい音楽が盛んだった地の一つであるドイツのケルンに留学し、カールハインツ・シュトックハウゼンとマウリシオ・カーゲルに学びました。

ヴォランズの音楽はしばしば「新しい単純性(Neue Einfachheit)」の音楽と呼ばれてきました。これは彼がドイツで活動していた頃に流行していた、音高やリズムに極度に複雑なパラメータ操作を施した「新しい複雑性(Neue Komplexität)」という音楽潮流に反発して起こった運動、というか幾人かの作曲家の音楽思考の方向性を呼んだ言葉です。ヴォランズの他にはヴァルター・ツィンマーマンやクラレンス・バーロー、ジェラルド・バリーといった作曲家たちが含まれます。いずれの作曲家も音楽の表面を聴くと、協和音、調性、錯綜としていないはっきりしたリズム等が特徴として挙げられます。しかしながら、「単純性」という語はいささか安直すぎる呼び名だと思います。というのも、上述の作曲家やその他のこの潮流に関係付けられる作曲家の誰もが、実はかなり複雑な音楽を書いています。

ヴォランズの音楽はしばしばアフリカの音楽構造(音律やリズム)を用い、それによってヨーロッパの主流の音楽と大きな差異が認められ、有名になりました。しかしヴォランズの音楽的興味はアフリカ大陸に縛られるものではなく、今日読んでいく『弦楽四重奏曲 第4番「ラマヌジャンのノート」』(String Quartet No.4 'The Ramanujan Notebooks', 1990/rev.1994)も、インドの舞踊に取材した音楽です。

タイトルにはインドの天才数学者・シュリニヴァーサ・ラマヌジャンの名が冠されていますが、彼の有名な数式や関数を作曲に応用したものではありません。この弦楽四重奏の原曲は南インド出身のダンサー、振付師であるショバーナ・ジェヤシン(Shobana Jeyasingh、現在はイギリス在住)のプロジェクトのために書かれた作品です。ダンス・プロジェクトは南インドのタミルナードゥ州で発祥した古典舞踊であるバラタナティヤム(Bharatha Natyam)を軸にしているもので、ヴォランズはその作曲の方法を当て書きだったと説明します。つまり、まずショバーナの振り付けがあり、踊りを踊ってもらってそのステップに合うようにリズムを計上し、音を付けていったということです。バラタナティヤムの踊りは、複雑な変拍子のリズムに歯切れの良いステップが付き、脚や腕だけでなく、指先や顔の動き、目線の動きまでも振り付けに巧みに取り入れられていて、驚くべき完成度の民族舞踊です。

(バラタナティヤムの舞踊)

ダンスの伴奏音楽を弦楽四重奏曲として編む際にヴォランズは、ヴィオラに重要な役割を与えることにしました。通常第1ヴァイオリンが座る席にヴィオラを配置したのです。曲中で旋律的に重要な役割をヴィオラが担ったり、第1ヴァイオリンよりも高音で歌ったりします。

ヴォランズは演奏上の注意点をいくつか書いています。メトロノーム記号をしっかり守ること、ピツィカートの響きを常に注意して弓奏と音量バランスを保つこと、スラーを運弓ではなくフレージングを示すために用いること、繰り返し記号の繰り返し回数に関する注釈が説明されています。メトロノームによる速度表示は感覚的に捉えられることもあるのですが、インド音楽のリズムを持つ場合にはテンポの変化等も正確に計算されていることがほとんどですから、この注意書きは意味があります。スラーの表記に関しては確かに最初に楽譜を見るとまるでピアノのスラーのように書かれていて違和感があるのですが、運休を示していないのであれば、何をすれば良いかは演奏家のセンスに任されているということになります。弓が足りない長いフレーズではどうしても弓を返しますが、滑らかに繋がるよう、細心の注意を払ってくれることでしょう。ただし、ごくわずかな箇所に明らかに運弓を示すスラーも見られます。大きなスラーで括られたフレーズの中に2音ほど小さなスラーで結ばれた音がある場合(第1楽章368小節)です。全体は2つの楽章で構成されており、概ねリズミカルな第1楽章とコーダを除いて静謐な第2楽章からなっています。

第1楽章は5/4拍子で始まります。ヴィオラとチェロの4+1で開始しますが、ヴァイオリンが入ると上三声が5/8 x 2のパターンに、チェロは3+2のメロディーを演奏します。最初4音(G, A, Es, B)の八分音符からなる上行アルペッジョを奏しますが、音が少しずつ変化して、3音からなる新しいモチーフが現れ、3音モチーフにセクエンツ進行で2音加えた5音モチーフなど、徐々に展開していきます。ヴィオラの展開に導かれるようにチェロはヴァイオリンの5/8 x 2回のモチーフとリズムを揃えたりして、声部間の関係性を新しく築いていくのです。

(ヴォランズ『弦楽四重奏曲 第4番「ラマヌジャンのノート」』第1楽章)

5/4拍子の箇所が終わると、4/4拍子のシンプルでリズム・ユニゾンの多いセクション(34小節から)が来ますが、使用音域がまず低音に拡大され、高音もやがて拡大されていきます。51小節から起こる大きなアルペッジョの錯綜はこの弦楽四重奏曲でしばしば用いられる方法があります。3オクターブ近く上行する第2ヴァイオリンとチェロの2オクターブに跨るユニゾンに2オクターブ下行する第1ヴァイオリン、音域は狭いもののメロディックに上下動しながら原則下行するヴィオラが混ざり合うのです。旋律の核が次々に別の楽器に受け継がれていき、四人がアンサンブルをした時に音楽の正体が姿を表す仕掛けになっていて、このような書き方で立体的なメロディー、リズムを形作る手法が作品全体に行き渡っています。完全に息を合わせて誰が主人公ということもなく一つの音楽を作り出す「弦楽四重奏」というジャンルの醍醐味を味わえます。その後も、さまざまな立体的なリズム、メロディー、和声が組み合わせの妙で試行されながら第1楽章は終わります。

第2楽章はゆったりとした響きの滲みをシンプルな方法で実現した、極めて充実した筆致を見せる楽章です。基本的なスタイルは小節の頭がいつも少し強調され、響きが育って減衰し、次の小節に移ってまた繰り返される構造の反復です。ただし、各小節の拍は目まぐるしく変化していき(6/4, 7/4, 6/4 x 2, 7/4 x 7, 8/4 x 5, 10/4…といった具合)、同じようなものを聞いているけど、同じではないという面白さがあります。

(ヴォランズ『弦楽四重奏曲 第4番「ラマヌジャンのノート」』第2楽章)

滲みの書き方も優れています。第1ヴァイオリンは3連二分音符群、もしくは5連四分音符群を担当し、第2ヴァイオリンとヴィオラは付点四分音符群を八分音符分ずつずれて2音からなる6度下行モチーフを演奏します。デコボコしながらも保続によってしっとりした八分音符の刻みが生まれます。チェロは最初第1ヴァイオリンの3連符の最後の拍を低音でまとめます。第1ヴァイオリンが5連符群に移ってからは、3連符群を一人で担当します。第2ヴァイオリンは拍頭の前に装飾前打音があってタイで伸ばしたり、八分音符分早く前の小節から入ってタイで伸ばしたりするので、第1ヴァイオリンの拍頭と打点に差が生じ、常にリズム点がぼやけているのです。伸ばしている音を切るタイミングも絶妙に楽器ごとに変えられています。細かい音は何もなく、非常にシンプルな楽譜ですが、アンサンブルでお互いのテンポの感じ方を合わせるのは大変でしょうし、聞いている方も、どのようにリズムが整理されているのか、簡単には耳で理解できません。こういう響きの滲みの充実に出会うと、自分の作曲意欲も刺激されます。

それぞれの小節の繰り返しは次第に間延びしていきます。新しい小節に入るたびに繰り返すのではなく、1小節の全休止小節を挟んで次に進んでいくのです。最初は3/16拍子等ごく短い全休止から、徐々に5/4、9/4と長い休止も挟んでいって、時間の感覚がどんどんぼやけていきます。とても効果的で美しい音楽時間です。しかし、出版譜でのこの全休止の記譜に関してはやや異論を唱えたいです。全ての全休止小節が同じ幅で書かれているので、長い小節がとても短く見えるのです。3/16の小節と9/4の小節の長さがどちらも同じで、2cmほどと大変短いのです。演奏家はもちろん注意して演奏するでしょうが、そもそもテンポ感を合わせる難しさのある曲なので、長い休止は視覚的にも多少は配慮した方が不慮の事故を防げる可能性があると思いました。音楽はぼやけながらも一定の進行感覚を持って進んでいくのに、楽譜上は突然目が止まることが増えるので、楽譜を見ていないで聞いている時と見ながら聞いている時の時間の齟齬が気持ち悪かったです。

第2楽章の102小節からはリズミカルなコーダがあります。ここもなかなか面白い筆で、和音を2回連打して休符を挟む展開はシンプルですが、とてもよくオーケストレーションされていて、強弱の付け方で立体的な効果を生み出しています。特に最後の部分では2回連打のうちの前半をヴィオラとチェロの強奏、後半を2人のヴァイオリンの強奏として、ホケトゥス的な楽しい効果を作りました。途中に挟まる下行分散和音も秀逸で、弓奏の5連符、ピツィカートの3連符が上二声と下二声で交互に奏する仕掛けは、技術的に無理なく効果も高いです。組になった二声は開始音は同じ音で、3連符の2音目では5連符は下に潜っています。5連符の最後の音は3連符の最後の音よりも低く、2つの声部が補完しながら、超速下行アルペッジョを作っているのです。そして二つの奏法の違いから響きもボコボコして面白く、独特の表現になっています。

余談ですが、私がケルンの音楽大学で教鞭を執っていたころ、南アフリカ共和国の留学生がいました。ドイツの経済状況と母国の違いが大変だと言っていました。日常生活で何をするにも母国よりも何倍もお金がかかるとのことでした。ヴォランズもその国からの大変な留学を経て現在があるのだと思うと、尊敬の念を覚えます。私が担当した留学生の音楽はとても詩的で、世界の多くの人の耳に届いてほしいと感じていました。彼女の留学生活が実り多く、その後も豊かな音楽生活を送っていけるよう願っています。そういうことも思い出しながら読んだケヴィン・ヴォランズの『弦楽四重奏曲 第4番「ラマヌジャンのノート」』でした。

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