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楽譜のお勉強【37】ヴャチェスラフ・アルチョーモフ『テンポ・コスタンテ』

ヴャチェスラフ・アルチョーモフ(Vyacheslav Artyomov, b.1940)は旧ソ連出身のロシアの作曲家です。グバイドゥーリナやススリンと一緒に即興演奏のグループ「アストレイヤ」(Astraea)を作り、民族楽器を含むさまざまな楽器を用いたパフォーマンスで有名になりました。アストレイヤの活動に関しては、CDも入手可能ですので、興味のある方は聞いてみると良いと思います。1979年にケルンで開催されたソヴィエト音楽フェスティバルにソ連の承認を得ずに作品を発表したとして、7人の作曲家が国から激しく非難されます。その作曲家とは、アルチョーモフ以外にエレーナ・フィルソヴァ、ドミトリィ・スミルノフ、アレクサンダー・クナイフェル、ヴィクトール・ススリン、ソフィア・グバイドゥーリナ、エディソン・デニソフがいました。いずれも早くから西側で認知された作曲家ですが、このフェスティバルでの作品発表は大きな足掛かりだったようです(当時のケルンは今以上に現代音楽のメッカでした)。この事件の後、彼らのソ連国内での活動はかなり厳しくなったようですが、西欧での発表実績から、それぞれドイツやフランスの出版社から作品が出版されることとなり、ソ連崩壊後の現在でも非常にしばしば演奏され、影響力を持つ作曲家たちです。

アルチョーモフの作風は多くの旧ソ連の作曲家がそうであったように、新古典主義的な作風からスタートしました。創作活動を大きく規制される政治事情を持った国に生まれた困難は計り知れません。アルチョーモフも同年代の多くの作曲家と同様に、知り得た新しい音楽語法をとにかく試し続けます。保守的な音楽語法を習熟することを宿命付けられた生い立ちは彼の作品に影響を落としています。さまざまな実験音楽の要素を含みつつも、古典的な音選び、楽曲構成を感じさせます。彼の作品の持つ折衷的なイメージは、内なる声を聞いてひたすら我が道を走ったグバイドゥーリナや、西欧的な技法を流暢に使いこなしたデニソフほどの人気を得ませんでした。しかし、真摯な態度で丁寧に書き込まれたスコアには、聞くべき魅力がたくさんあります。

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『テンポ・コスタンテ 〜管弦楽のための協奏曲』(»Tempo costante«, 1980)は「一定のテンポ」もしくは「一定時間」というような意味です。小編成のオーケストラで、フルートとオーボエが各1本ずつ、金管楽器はなく、2人の打楽器奏者が多くの打楽器を演奏します。特段変わった楽器は用いませんが、マラカスやボンゴ、ギロといったラテン系の楽器や少し珍しいところではフィンガーシンバルが使われています。チェンバロが入っています。ただし、チェンバロ・パートはピアノで代用して良いという指示があります。弦楽器は最小編成でヴァイオリン9人、ヴィオラ3人、チェロ2人、コントラバス一人です。管弦楽のための協奏曲という副題に読み取れる通り、小回りの効く編成で、個々の演奏家の能力を存分に発揮して、対比を作っていく音楽になっています。

ほとんどトゥッティ(全奏)の和音で曲が開始してチェロとコントラバスのトレモロによるクレッシェンドが聞こえ、間もなく曲全体に支配的な要素が現れます。弦楽器のピツィカートによる三連符の蠢きです。ヴァイオリンとヴィオラがそれぞれ3部に分割されています。チェロは2部に分割されており、ほとんどこの分割で曲が進行します。蠢きの要素は最初ヴァイオリン上2声部が各短3度クラスターをランダムに分散させたもの(A-Bb-B-CとF-Gb-G-Ab)で開始し、1拍後にヴァイオリンの第3ヴァイオリンが第2ヴァイオリンにEを加えた完全4度クラスターの分散で加わり、第1ヴィオラはそこからかなり音域を下げて(F#-A)、さらに2拍後から参加、さらに音域を下げた第2、第3ヴィオラが徐々に加わります。バラけたクラスター様の織物に音程の隙ができ、和音のようなクラスターのようなものに育っていく感じです。クレッシェンドとディミヌエンドを一緒に加えるので、群れを成す生き物のようなダイナミックな表情を持ちます。この要素に一呼吸はさみながら次は低音弦楽器、木管楽器と受け継いでいくのです。前景に聞こえる蠢きに対し、他の楽器群が特徴的な別の織物を加えます。最初の高音弦楽器に対しては木管楽器のトレモロ、低音弦楽器に対して高音弦楽器のグリッサンドを伴うクラスター和音(+特徴的なギロのパルス)、木管楽器に対しては弦楽合奏の和音トレモロとチェンバロの和音、といった具合です。

蠢くピツィカートは弦楽合奏とチェンバロで厚みを増しますが、すぐにディミヌエンドしていき今度は後景へと引きます。チェロ、ヴィオラ、ヴァイオリンの順で弓奏のソロによるメロディーを歌っていきます。冒頭のクラスター分散で聞かれた半音階的要素は、旋律を作る際にも要素の一つになっていて、短2度の他に、それを転回した長7度やオクターブを加えた短9度が非常に頻繁に用いられています。これらを旋律的に線の中で頻繁に用いることがややアカデミックな無調音楽に聞こえ、この作品の保守的な響きを作っている点とも考えられます。

弓奏によるソロが対位法的に層を成していくにつれて三連符で蠢く楽器は減っていき、最後に残ったチェンバロ、第2ヴァイオリン、チェロが途絶えるタイミングでマリンバに受け継がれますが、ここに至っては完全に後景になっていて、弦楽器がコラール的な音楽を挟み、フルートとオーボエの絡み合うアラベスクへとつないでいきます。

このように、いわゆる「管弦楽のための協奏曲」的に特徴的な前景が対比的に繋がれ紡がれていく音楽なのです。やがて中間部に向けて曲を快速に進めていた三連符やそれよりも早い音価は姿を消していきます。練習番号15番(小節番号は、各楽器で小節数が一致しなくなる箇所があるため書かれていません)からは完全にコラールの要素だけが残り、先に現れた旋律と似た旋律群が対位法的に絡む音楽へと発展していきます。長い和音で中間部が収束していきますが、マリンバの駆け上がるようなソロとコントラバスのピツィカートによるパルスの対話が面白く、和音が消失してからはマリンバの独白が残ります。

そこから再び動きのある音楽になります。三連符で一定のパルス進行を聞かせる要素はこのタイミングでは復活しませんが、リズミカルに各楽器がリズムを相互補完しながら短い音価で面白みのある音楽を奏します。その音楽はさらに自由度を増し、「管理された偶然生」を用いた[A]、[B]、[C]というセクションに入ります。[A]はフルート、マリンバ、チェンバロの三重奏で、それぞれ任意の順番で自由なタイミングで演奏する4〜6つの1〜5小節の断片、[B]はオーボエ、チェンバロ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ(弦楽器はそれぞれ独奏)の4〜5つの短い断片、[C]は打楽器二重奏の8つの断片を演奏していきます。この曲全体に言えることですが、書かれている音が全てとても明瞭に聞こえます。この自由な組み合わせによるセクションでも、音の疎密や強弱のバランスが絶妙な空白を持っていて、相互補完しながら全ての要素が聞こえるように計画されている点が非常に巧みだと思いました。とりわけチェンバロをモダン楽器の中でクリアに聞かせるのは、楽器の音量に問題があるため注意深い計画が必要で、とても上手だと思いました。

この自由度の高いセクションから後はいわば逆再現部とでもいうもので、それまでの音楽で用いられた要素が、省略されてなおかつ密度を増した形で、およそ逆順に演奏されます。最後は三連符の刻みではなく、ゆっくりな音楽になるので完全な逆順ではないのですが、およそアーチ形式に似ている発想で構成された音楽です。

タイトルの「一定のテンポ」という言葉は、曲の在り方を表しています。この曲には加速や減速を含むあらゆるテンポの変更がありません(BPM=120)。また、最初から最後まで4/4拍子で書かれています。自由な組み合わせによる箇所も、4/4拍子を崩さずに断片が書かれていますし、テンポの変更もありません。しかし、さまざまな支配的な細分割パルスを巧みに変更させることで、一つのテンポの中に内在する音楽の経験的テンポを自在に変化させています。このこと自体がこの作品の聴きどころであり、丁寧に整理された筆致で興味を削がない音楽に昇華させていました。

アルチョーモフの音楽は先にも述べたように、それほど頻繁に演奏されているわけではありません。しかし作曲が大変丁寧で、作曲意図を音を通して聴衆の耳に届けることに優れた作曲家です。自由に作曲活動をすることが制限された中で自らの音楽を実現し続けた人たちに畏敬の念を覚えます。私が普段からほとんど制限のない音楽を考えて実現することを許されている自由は、逆説的ですが、しばしば私を怠惰に誘います。アルチョーモフなどの音楽を聞くとき、私も今一度自分の音楽の言葉への渇望を思い出さなくてはと思うのです。

*「楽譜のお勉強」シリーズ記事では、著作権保護期間中の作品の楽譜の画像を載せていません。ご了承ください。


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