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楽譜のお勉強【72】アルヴォ・ペルト『スターバト・マーテル』

Bachtrackというクラシック音楽の統計サイトで2022年に最も演奏された存命の西洋音楽の作曲家が発表されました。統計はアメリカ、イギリス、そしてヨーロッパの主要な国々の演奏会を対象にしたものなので、世界中の全部のコンサートを調べ尽くしたものではないのですが、世界の大きなホールなどの主要な演奏会で頻繁に演奏されている作曲家を概ね知ることができます。調査の対象になった演奏会は27124公演に上りますから、なかなかの精度を持つ統計だと思います。2022年の年間を通して最も演奏された作曲家は、エストニアの作曲家アルヴォ・ペルト(Arvo Pärt, b.1935)でした。実はペルトは過去に何度も最も演奏された作曲家に選出されている経緯があり、今日最も成功した作曲家であることは間違いありません。作品の演奏は比較的平易なものも多く、アマチュア音楽家にも広く支持されておりますし、短調の響きを中心とした深みのある音楽は、幅広いファンを獲得しています。日本でも、2014年に高松宮殿下記念世界文化賞を受賞しています。

ペルトの音楽は初期には前衛的な書法を試みたものの行き詰まりを感じ、単声聖歌やルネッサンス期のポリフォニー音楽などを研究し、三和音を中心とした調性の響きに回帰しました。ペルトはこれをティンティナブリ(鈴の声)様式と呼び、単純なリズムと一定のテンポで素朴に鈴が鳴っているような響きを想起させるものとしています。この語法で作曲され始めるのは1970年代中ば以降で、この頃からペルトは大きな人気を集めるようになります。宗教的な題材を持つ曲が多く、教会などでも頻繁に演奏されています。例えば『カノン・ポカヤネン』(»Kanon Pokajanen«, 1997)という90分を超える無伴奏合唱曲はケルンの大聖堂の建立750周年を記念して委嘱された聖歌で、ヨーロッパの強大な教会音楽シーンでも愛されている作曲家だと分かります。戦争など不穏な事件の多い現在、祈りの音楽の需要は高まっているのかもしれません。

2023年最初の「楽譜のお勉強」ではペルトの『スターバト・マーテル』(»Stabat Mater« per soprano, alto, tenore, violino, viola e violoncello, 1985)を読んでみたいと思います。この曲には2つのバージョンがあり、ソプラノ、アルト、テノールの独唱と弦楽三重奏による版、ソプラノ、アルト、テノールの三部合唱と弦楽オーケストラによる版があります。本日はオリジナルである小編成の版を読んでいきます。

「スターバト・マーテル」は13世紀に発生したカトリック教会の聖歌の一つで、詩の作者は明らかになっていません。この聖歌の歌詞を用いて多くのクラシックの作曲家が音楽を作曲しました。特に有名なのは、ペルゴレージ、ロッシーニ、ドヴォルザーク、プーランクなどの作曲家によるものです。ペルトの『スターバト・マーテル』も最も有名な作品の一つに数えて良いでしょう。

歌詞はラテン語で、以下のリンクに大意が書いてありますので、ご覧ください。

曲は弦楽三重奏から始まります。拍子は書かれていませんが、しばらくの間は3/2拍子と読めます。小節数も書いてありませんが、リハーサルに用いるリハーサル番号が振られています。冒頭はヴァイオリン、ヴィオラ、チェロと順番に高音楽器からゆっくりとイ短調の音階で降りてきます。ときおり仕切り直すように上行もするので、本当にゆっくりとした下行になっています。イ短調の和音は最初の3音で完成しますが、上からA-C-Eの開離配置となっていて、第2転回形から始まるので、機能和声を意識しているわけではないことも分かります。ほとんど機能性がなく、ただ順番に降りていく階段という感じです。

リハーサル番号[4]から歌が入ります。この歌は、弦楽三重奏の冒頭を1オクターブ下に移調して繰り返したものです。歌詞は原詞と違って「アーメン」から入ります。弦楽器群は、ちょうど歌の開離配分の和音構成音の間に密集配分の厚い和音となるように配置されます。冒頭、ピアニッシモのごく弱奏から開始し、ピアノまで音量を上げていますが、ここで突然フォルテになります。和音の声部数は2倍になっていますし、開離配分だった和音が密集配分で厚い和音になるので、効果的なコントラストを生み出しています。

徐々に弱奏になっていき、歌も途切れたあと、再び歌が入る箇所で強奏に戻ります。ここから歌詞が本格的に展開するので、音楽の内容も変わります。リズミカルに打点を統一した弦楽の伴奏に乗って、ホモフォニックな歌が歌われます。ここから小節の分割が特殊になります。一部の例外を除いて言葉が小節に対応するようになります。つまり、音節の長い語ほど長い小節になり、一音節の語はごく短い小節になります。ただし、リズムは全音符と二分音符の交代で書かれていますので、これまで通り耳には3/2拍子に聞こえます。言葉一つ一つを噛み締めるように歌えという意思表示でしょうか。また、この部分では冒頭の配分一致でみんなで降りてきた書法と違って、ルネッサンスの合唱曲のように声部間の上下交代が頻繁に行われます。

この後、リハーサル番号[8]からさまざまな独唱・独奏的なフレーズが組み合わされます。続く[11]からは急にテンポの速い器楽音楽になります。それまでの拍であった二分音符の音価を付点二分音符に置き換えて、なおかつ八分音符を含む速いパッセージで演奏されます。拍ユニットの分割をバイナリーとターナリーに変更して違うテンポ感を作り出す手法は古楽によく見られます。ペルトの古楽への偏愛を見出すことができる箇所だと思います。同じような手法はリハーサル番号[18]と[25]からも見られますが、[18]では八分音符を全ての楽器で用いることで、さらに速度感を増し、[25]ではさらに細かく、16分音符を用いているので、とても速い音楽になっています。ペルトの音楽はゆっくりしたものが多いですし、この曲の気分もゆったりしたものですが、よくよく聞いてみると結構速いパッセージが入っていたりして、うまく音楽的ドラマを作り上げています。

リハーサル番号[29]から声楽の三声でユニゾンの旋律が歌われます。長くシンプルな音楽が流れ、単声になる瞬間も結構多いので、ユニゾンをどこかで聞いた気になる音楽ですが、実は歌のユニゾンは曲の最後の方のこの部分まで使われていないことに驚きました。明らかにユニゾンが耳に新しく響いたので、確認のために前方に戻って探しました。シンプルですが、ものすごく慎重に計画された作曲です。転調を用いないので、音楽は完全に一つの気分の中に埋没しているようですが、閉じた世界の中でさまざまなコントラストと驚きの美的表現に出会っていく聴取は面白かったです。

ペルトの音楽の人気は、楽曲へのアプローチのしやすさによるところが大きいと思います。しかし、一つ一つの素朴な音楽表現の力を信じていることはよく伝わってくる筆致で、演奏家は真剣に取り組めば音楽の大切な何かを思い出したりするかもしれません。虚飾を排した音楽もたまには良いと思いました。

余談ですが、先ほどの統計、2位から10位までは次の通りです。2位ジョン・ウィリアムズ(映画音楽の演奏会ではものすごい確率で演奏されます)、3位ジョン・アダムズ(僕も大好きな作曲家です)、4位トーマス・アデス(確かによく耳にしました)、5位フィリップ・グラス(日本でも昨年大きな作品の話題公演がありました)、6位イェルク・ヴィトマン(よく勉強した作曲家です)、7位ソフィア・グバイドゥーリナ(以前記事を書きました)、8位アナ・クライン(とにかく曲をどんどん発表していてすごい創作力です)、9位ヴォルフガング・リーム(曲数ではトップ10入り作曲家の中でもダントツだと思います)、10位ジェームズ・マクミラン(演奏効果が高く耳に心地よい音楽です)。ちょっとびっくりし人も混ざってますが、まあ皆さんよく聞く人ばかりです。アダムズ、ヴィトマン、リームあたりは今年何か記事を書けたらなと思います。本年も「楽譜のお勉強」をよろしくお願いいたします。

*「楽譜のお勉強」シリーズ記事では、著作権保護期間中の作品の楽譜の画像を載せていません。ご了承ください。


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