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新曲の楽譜へのアクセス

最近、幾人かの知人からお話を聞いていると、日本での音楽批評の土壌をもっと豊かにしたいという声が結構あることに気付きました。日本の音楽シーンの魅力をしっかり伝えようと努力してくださっていることがよく伝わる批評もあれば、問題点を辛辣に突いて気づきを促す批評もあって、読み手としては結構楽しく読んでいるのですが、言われてみれば確かに、私が暮らしているドイツのような批評シーンの広がりはないのかな、と感じる場面もあります(自分の作品への批評は、個人的には批判も好意的なものも嬉しく読んでいます)。

具体的には、特定の批評家があまりにも忙しく大量の記事を多方面で発表していることだったり、批評内容が作曲家の書いた楽譜に触れていないものが多かったり、という点が挙げられるでしょうか。特定の批評家が忙しいという状況は、その著者の文章の面白さやスター性に鑑みて、ドイツでもしばしば起こることですが、やはり全体の批評家数は日本の方が少ないのであろうという印象はあります。これはシーンのサイズから考えると自然なことです。あるいは日本の作曲家研究がそれほど興味を惹く題材でないのかもしれませんから、音楽学者や音楽ジャーナリストにとって面白い題材であると感じてもらうために、私を含め作曲家たちの更なる研鑽も必要そうですね。

上述のもう一点、批評家が作曲家の楽譜の内容に触れている批評が少ない、という点について思うことがあって筆を執ることにしました。音楽批評を書く人たちがどのような人たちなのかを考えると、一方に音楽大学等の高等専門教育機関で音楽を勉強した音楽学者や音楽ジャーナリストたちがいます。そしてもう一方には、新しく生まれている音楽に関心があって趣味として培った耳と知識を鍛え上げ、音楽作品の内容や魅力などについて音楽の専門教育を通した知識とは違った角度から語る方法を考えた人たちもいます。後者が前者と違う大きな点として、楽譜をそれほど読めない人も結構な数で存在している可能性があるということがあげられます。

音楽を聴く行為は、読譜の能力を必要としません。そして、楽譜の知識があれば音楽の本質がより分かるかというと、それは必ず正しいというわけではありません(少なくとも僕はそう考えていますが、そう僕が信じる理由等は大変込み入った話になるのでこの記事では書きません)。楽譜の知識が必要なのは、楽譜を通して音楽を実現する作業に関わる人たちです。つまり、作曲家と演奏家。作曲家と演奏家も、全ての人が楽譜の知識を必要としているわけではありません。しかし、楽譜を用いて作品を残す修練を積んだタイプの作曲家たちは、その音楽を特徴付ける要素や仕掛けを楽譜内に仕込みます。演奏家は、これを読み解いて演奏したり、練習の過程で徐々に作曲者の思惑に出会っていったりします。このように楽譜からは作曲者の意図のようなものが読み取れることがあるので、批評家の中で楽譜を読むことに長けているタイプの人たちが、新しく発表された曲の楽譜を読んで批評をすれば、その人たちが楽譜から発見した内容を文中にしたためることができ、批評文にユニークな特色が生まれると思うのです。

このあたりでドイツの音楽シーンの様子と日本の音楽シーンの在り方の差が出てきます。批評家はどのようにして新しく作曲された楽曲の楽譜を見ることができるのでしょうか?新しく発表される曲は大きく二つに分けて、出版社からすぐに出版されて初演から使われるものと、作曲家個人で管理して演奏家や他の人たちに頒布するものがあります。後者の場合、作曲家と直接連絡を取る必要があります。楽譜を入手するには、演奏会の休憩時間や終演後の賑わうロビーで作曲家とお話できるタイミングを見つけたり、作曲家のホームページから連絡を取ったりするわけです。前者の場合は楽譜を入手するのにかなりのお金がかかり、現実的ではありません。現代の新しい音楽は通常クラシックのコンサートで演奏されている曲に比べて割高なことが多く、編成が大きなものになるとそもそも販売用楽譜として取り扱われないことが多いです。レンタル楽譜というシステムで、大変高価なことが多いのです。作曲家からすると、レンタル楽譜のシステムがないと、作曲活動の継続が困難なのでありがたいシステムなのですが(印税の支払率が大きく違うのです)。

ただし、これは正規の手続きをとって楽譜を注文した場合の話です。出版されている楽譜は出版社から入手するか、出版社に赴いて閲覧するしかないのですが、この辺りがドイツと日本で状況が大きく違います。ドイツでは多くの音楽祭で発表された新曲の楽譜が読めるような出版社ブースがホワイエに立ちます。割とゆっくりと閲覧できる時間がありますし、出版社によってはその場で楽譜を購入することもできます。新曲の場合、出版社のカタログに価格設定がされていないことも多く、その日限りのプロモーション用として出版社の言い値で購入できたりすることがあります。そしてこの言い値というのは、多くの場合カタログ収載後の値段よりもずいぶんと安価であることが多いです。私が初めてのオペラを発表した音楽祭ミュンヘン・ビエンナーレの場合は、ミュンヘン市内に散らばる様々な会場でミュージックシアター作品が長期にわたって上演し続けられるため、出版社の販売ブースはありませんでした。しかしそんな場合でも楽譜は閲覧できます。フェスティバルの事務所があり、そこには上演される全ての作品の楽譜の閲覧スペースがあるのです。それぞれの新聞、雑誌、ウェブメディア等で音楽批評を担当している音楽学者やジャーナリストが閲覧スペースでメモを取りながら楽譜を積んで読んでいる姿を目撃しました。

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(左から『擦れ違いから断絶』スタディスコア、オペラ『ヴィア・アウス・グラス』ピアノリダクション譜(以上Edition Gravis社)、『ケルン・ヴィオラ・ブック』(私の作品『二弦上の完全終止形』収録、Breitkopf & Härtel社))


記事を書く際の楽譜の内容確認というのは、実はそれほど深く分析的に読まなくても大きな効果があると思っています。例えば、記事にするべき新曲を聞いたときに「完全4度がドローンのように聞こえている箇所が結構あったなぁ、それを軸に構成しているのかなぁ。でも、微分音程もたくさん聞こえてたから記事に書くほどには確証が持てないなぁ」と思うことがあれば、その要素だけを探す目的で楽譜を勢いでめくれば、確認がとれたりするからです。ですから、日本でのコンサートでも、より楽譜を批評家のみなさんの、さらにはお客様の近くに提供しても良いのではないかと感じることがしばしばあるのです。武満徹作曲賞という作曲コンクールでは、昔から入選、入賞者の楽譜をロビーに展示してあります。とても素晴らしいことだと思っています。

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(譜例『擦れ違いから断絶(Miscommunication to Excommunication)』©Edition Gravis Verlag GmbH)


楽譜が音楽批評家や音楽ジャーナリストにとってアクセスしやすい場所にあるという状況は、作曲家が新曲を発表するときに執筆するプログラムノート(楽曲解説文)の提供の仕方にもドイツと日本で違いがあるので、このことに関してはまた近いうちに別の記事として書こうと思います。

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(譜例『ヴィア・アウス・グラス』©Edition Gravis Verlag GmbH)

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