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楽譜のお勉強【54】ファビアン・パニセヨ『ピアノ練習曲集 第1巻』

ファビアン・パニセヨ(パニセロとも)(Fabián Panisello, b.1963)はアルゼンチンのブエノス・アイレスに生まれスペインを中心に活動する作曲家です。国際的に活躍し、多くの国でさかんに演奏されている作曲家で、日本の音楽大学での講演に招かれたこともあります。現代スペインを代表する作曲家と言えます。作品は多岐にわたるジャンルで数が多く、本日は『ピアノ練習曲集 第1巻』(»Klavieretüden, Band 1«, 2008)を読みたいと思います。

パニセヨは少くないピアノ曲で特に練習曲に力を入れていて、第1巻6曲、第2巻3曲に続き、現在は第12番まで発表されています。第1巻と第2巻は初演者であるディミトリ・ヴァシラキス(アンサンブル・アンテルコンタンポランのピアニストとして有名)が録音して、CDがリリースされています。

各曲にはタイトルが付けられており、第1番から第4番は同じもので、「クロマ」(Chroma)という題です(Chroma I - IV)。「クロマ」とは「彩度」のことで、ピアノの色彩的な表現を追求している練習曲だと推察されます。また、クロマティックすなわち半音階的書法も意味しており、第1番から第4番はほとんどずっと半音階素材が用いられています。

第1番「クロマ I」は4/4拍子で書かれていますが、小節線は便宜的なもので、4/4の拍を感じさせるまとまりはありません。レガティッシモ(最高に滑らかに)と書かれた左手の半音階が16分音符で最低音から上昇しますが(BPM=120)、音数は変則的でありつつやや一定で、13、9、11、11、11、11、11、11というグルーピングです。ピアノの88鍵を11で割って8等分したものが元になっていますが、最初のオクターブのみ13音で完走させ、次を9音にして帳尻を合わせています。滑らかに演奏するけれども、グループの最初をほんの少しアクセントで奏する指示があります。この疾走句は四分休符一つ分の休止の後に開始しますが、右手は四分休符一つと16分休符一つ分休んで、すなわち左手と16分休符一つずれて開始するのですが、これは16分休符5つの休止が右手のパターンを区切る役割を担っているからです。16分音符4つの下行半音階が最高音域のB音から始まります。16分音符5つ分の休止を挟んで下行半音階は増殖していきます。4つから始まったものが5、6、8と増え(8の前だけは休止数が例外的に16分休符7つ分です)、4、6、7、3、2と様々に増減し、左手の11音パターンのどこかで噛み合っていきます。このように、4/4とは関係がない音の連なりが続くのですが、これを11/16で記譜してしまうと、左手の構造が右手の構造より優位に見えてしまいます。小節線なしで記譜するとあまりにも煩雑な音の連なりに翻弄され、両手の音が噛み合う点を判別するのが困難になるので、演奏の便宜上拍子を与えたという感じでしょう。左手のパターンは2回目まで11音が続きますが、その後はどんどん細かくなって、3や2というグループまで縮小されていきます。右手は音数を増し、短2度の重音による下行半音階になります。休止の間隔も一定でなくなり、増減をしつつ、また次第に休止部分で鍵盤を押したまま音が伸ばされていきます。右手の重音は長2度、短3度、長3度、完全4度と、どんどん音程を広げていき、最終的に長9度まで拡大します。短9度や長9度で疾走する下行半音階を演奏するのは技術的に大変で、音数的には半音階全てをカバーする長いグループはないものの、高度な演奏技術を要求する曲になっていて練習曲らしいです。また、右手の重音の音程が拡大するごとに右手のフレーズに跳躍音程が解禁されます。現れた音程分は半音階を飛ばして良いというルールのように読めます。後半では右手の最高音から下行半音階が左手の持続を担うグループと同様の役割になり、役割分担の交代があります。細かく分かりやすいように記譜されていますが、とにかく数えるのが大変なイメージの曲です。

第2曲の「クロマ II」では半音階の分散和音化がテーマのようです。つまり、短9度で3回上昇、長7度で4回下行すると、B-C-C#-D-D#-E-F-F#という上行半音階が分散和音のような動きになるということです。下行半音階の時は上行と下行で音程関係が逆になります。次第に通常の半音階を混ぜながら、半音階が明滅する効果を繰り出していきます。第3曲「クロマ III」はごく小さな音程間の中の半音的関係をうろうろする曲で、広範囲な音域にわたって半音階の流れが疾走しない代わりに、刺繍音の渦のような、うごめく響きの音楽になります。第1曲と同じように半音階は重音へと育っていきます。音程も次第に成長していくもので、第1曲との共通点は多いです。両手共に重音奏になっていくため、演奏は大変困難です。特に右手が短9度、オクターブ、長7度を3つから4つの音のグループのパターンでうろうろする時に、左手が5度、6度、7度で同様に動く箇所は練習のしがいがあると思います。ヴァシラキスの演奏はとても正確で上手です。第4曲の「クロマ IV」は冒頭の楽想用語に「Enigmatico, intimo」(謎めいて、親密に)とあるように、これまでの「クロマ」と違って謎めいた曲になっています。半音階を元に構築してありますが、和音を作り出しており、また同音の再利用も多く、ゆっくりしたテンポもあって半音階の発見が困難です。最初の音から成長していくように、上行半音階が、少し後には下行半音階が旋律として用いられますが、それらは組み合わされて、あたかも半音階的和声のような響きになってます。なおかつ半音階の成長に伴って現れる音を和音としても用いるので、叙情的な緩徐楽章のような響きになっているのです。

第5曲の「ペンタフォニアス」(Pentafonías)で初めて半音階とは異なる音素材によるエチュードが登場します。響きもガラリと変わって、五音音階がテーマです。様々なトランスポジションの五音音階が組み合わされているので、エキゾチックな雰囲気だけでなく宇宙的な浮遊感も持った響きになっています。12/8拍子で書かれていますが、これも組み合わせを読みやすくするための便宜的なもので、8分音符3つか4つ(2+2も)のグループで五音が完結するように書かれています。冒頭は右手がC+D-G-A-Eという5音、左手はC+F-A#-G#+D#という五音で、いずれも基音から長2度、長2度、短3度、長2度という普通の五音音階に書き直すことが出来るものです。共通音はCで、最初はCDFGという音がなりますから、不協和の効果も強くありません。しかしそこから安定した響きはどんどん逃げていきます。基本的に五音音階は一回使ったら別の五音のセットに移っていき、左手と右手のパターンの音数も3と4で噛み合わず、五音音階で聞きやすい感じなのに確実なものは何もなくうつろっていくという、魅惑的な作品です。

第6曲「二重の練習曲」(Doble estudio)は、曲集中で最も規模の大きな作品で、一つの技術や音楽性を練習するというより、規模の大きな普通のピアノ曲のようにいろいろな技法で書かれているように見えます。しかしよく見てみると、軸になっているのは「ペンタフォニアス」の音楽と「クロマ」シリーズで使われた技法を半音階からディアトニックに拡大解釈したものです。「ペンタフォニアス」はほぼそのままの形で引用して現れ、「クロマ IV」で現れた基軸音からの和音の創出とそれをさまざまな音域に散らす方法、そして「ペンタフォニアス」で得られた音素材を「クロマ II」の技法で導かれた方法でアルペジオにしていく技法が後半に見られます。また左手が疾走するアルペジオを演奏する際は、右手に不規則のように聞こえる規則的な和音が聞こえますが、これは「クロマ I」の右手で行われたパターンのように現れる休符の規則性に準えることができます。ただし、音は半音階ではない(「ペンタフォニアス」由来)ので、様子は全く違うのですが。練習してきたことを総合する練習曲という感じでしょうか。一つのコンサート・ピースとして演奏できるような風格を持った作品になっています。

パニセヨの音楽は高度の演奏技術を要求するものが多いですが、複雑な奏法などは少なく、西洋クラシックの演奏家にとってやりがいのある曲が多いです。ピアノ以外の独奏曲が多くないことは、彼の作品の演奏頻度が日本などで上がらない要因の一つであるかもしれません。しかしまだまだ現役で精力的に活動している作曲家ですから、これからも面白い曲をどんどん書いていくことでしょう。楽しみに聴いていきたいと思います。

*「楽譜のお勉強」シリーズ記事では、著作権保護期間中の作品の楽譜の画像を載せていません。ご了承ください。


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