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楽譜のお勉強【45】ソフィア・グバイドゥーリナ『四元数』

ソフィア・グバイドゥーリナ(Sofia Gubaidulina, b.1931)は現在のロシア連邦出身の作曲家で最も成功した作曲家とも言われています。出身は厳密には現在のロシア連邦タタールスタン共和国ですので、ロシア人というよりタタール人です。最近は90歳という高齢のこともあり新作の発表はほとんどありませんが、世界中で作品は演奏され続けています。楽器と向かい合う姿勢が執念深く、さまざまな奏法で一つの楽器から多様な表情を引き出す神秘的な音楽が魅力です。2016年にはスペインのBBVA財団フロンティアーズ・オブ・ナレッジ・アワードを女性作曲家として初めて受賞し、音楽界のジェンダー・シーンでも大きな尊敬を集めました(その次の年には同じ女性のサーリアホが受賞しており、2018年以降は作曲家への贈賞はありません)。この賞は科学や人文科学の分野において世界的に著しい貢献のあった人物に贈られる賞です。

このように大変著名な作曲家なのですが、実は私はこれまでそれほど勉強してきませんでした。いくつか楽譜は所有しているので、今日は4つのチェロのための『四元数』(»Quaternion«, 1996)を読んでみることにしました。チェロを4つ用いることで、グバイドゥーリナの楽器法をじっくり聞くことができると期待します。

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タイトルの「四元数」とは、虚数単位 i, j, k を用いてa + bi + cj + dk と表せる数のことだそうです。解説を読んでも自分の理解がいまいちなので、こちらにリンクを貼っておきます。

曲とタイトルの関係は明瞭ではありませんが、4という数がキーになっていることは理解できます。『四元数』は、4人のチェロ奏者の音楽内容の距離感が非常に近い作品で、その強い関連性を「四元数」に見立てたと考えられます。虚数と関連付けていることもグバイドゥーリナらしいと感じます。というのも、彼女の音楽は割り切れるリズムをきらうことがあるからです。奏者の柔軟な感性に任せたリズム記譜と、それをアンサンブルとして成立させる手腕にグバイドゥーリナの技量が発揮されます。

どのようなリズム記譜かというと、普通の8分音符や16分音符(連符を含む)を繋ぐ連桁(れんこう、旗・符鉤を太い横線で繋いだもの)を波線で表すものです。この書き方は自由なリズムを意図している時に用いられることがありますが、グバイドゥーリナの場合はテンポのない部分以外でもよく使うのです。4つ並んだ8分音符をしっかり2分音符の音価内に収めつつ、縦の線を揃えずに少し曖昧にする感じです。rubato(ルバート、テンポを少し揺らす)と書くことも出来ることがありますが、rubatoはテンポ全体に作用してしまうため、厳格なリズム・セクションの中に曖昧なものを混ぜたい時などには不明瞭になり、相応しくありません。矛盾に聞こえますが、楽譜は曖昧さを表現したくてもそれを正確に伝える必要があり、思いのほか難儀で奥深いのです。

『四元数』では、第1、第2チェロが通常の調弦で演奏され、第3、第4チェロは通常より四分音(半音の半分)低く調弦されて演奏されます。この4丁のチェロがしばしばとても近い音域で絡み合って、あやしく滲んだ響きを作り出す音楽です。四分音低く調弦された楽器は記譜された音よりも四分音低い音が鳴ります。すなわち移調したものとして記譜されています。ただ、録音をいくつか聞いてみましたが、面白い現象がありました。弦楽器の音程は左手の指で押さえて作っていきますが、ギターのようにフレットがないため、勘所というか、経験で耳を鍛えポジションをマスターしていきます。これは大変微妙な調整が必要で、特に微分音をたくさん用いる曲では、本来移調楽器ではない弦楽器では記譜されている音と鳴る音が違うと、とても気持ちが悪いと聞いたことがあります。つまりDと書いてあるからDを押さえてみたらDより四分音低い音が鳴っているというような状況が起こると、どうしても自分のピッチが悪いように感じて微調整しそうになるというのです。その影響か、四分音ずれて聞こえるべき同じ記譜音が同じ音になってしまっている箇所が私が聞いたどの録音にもありました。その後バレないくらいのタイミングで微調整しているのですが…。弦楽器の難しさを感じます。

調弦を確認するかのような冒頭のコラールが終わると、コル・レーニョ・サルタート(弓の木製部分で弦をバウンドさせて叩く)でパタパタと不思議な効果を聞かせる箇所が始まります。現代音楽のクリシェとも言える奏法ですが、響きがよく、曲の雰囲気にとても合っています。通常の弓奏に戻って半音階的な音楽を経て、長距離グリッサンドの応酬になります。これらの要素がしばらく様々な変奏を伴って続きます。弓奏で提示された主題は第1チェロがリードしました。この曲では新しいセクションに入っていく時はほとんどいつも第1チェロがリードしていきます。「四元数」に主従関係があるようで、少し違和感があります。

練習番号29番から新しいセクションが始まります。やはり第1チェロが素早いトリルのような短2度往復をスタッカートで弾いて、その後リズミカルな半音階旋律が続きます。この要素で対位法的に第2チェロと対話し、第3、第4チェロはピツィカートの伴奏で支えます。次第に対位法は第3、第4チェロに伝播していき、盛り上がっていきます。

続く44番からのセクションはとても勉強になりました。二弦の重音で開放弦ハーモニクスと人工ハーモニクスで短2度や長2度、それらの間の微分音程など、かなり難しい音を実現可能な方法で多彩に用いています。この微細なハーモニクスの響きで四人のチェロ奏者が対話する様子はライブではかなり新鮮だと思います。

53番から先ほどの29番の短いトリルとリズミカルな半音階が回帰しますが、今度は弓奏ではなく、指で叩く奏法で、最初のコル・レーニョとはまた違った表情の打楽器的な効果が楽しめます。このセクションに続く66番からはさらに打楽器的効果の音質を変えるため、金属製の指ぬきを指に嵌めて弦を叩いていきます。4人全員が充分に指ぬきで遊んだ後は、第1チェロが旋律に立ちかえるのですが、まずはピツィカートで弾ける音質で、指ぬき打ちの伴奏と響きのバランスを取り、続いて弓奏に戻って、豊かなコントラストを味わう構成になっています。次第に全奏者が弓奏に変わり、冒頭の半音階的な音楽へと戻っていきます。

この回帰で古典的な曲は十分に終わることができるのですが、執拗に楽器の表情を引き出すグバイドゥーリナは諦めません。ピツィカートと弓奏による新しいセクションを開始し、コル・レーニョでの断続的なコラールへとつなぎます。通常の弓奏に戻り、大きなカノン状の展開を聴かせ、上行グリッサンドの渦へと盛り上げます。

過去の要素を使って少し盛り上がりを治めたあと、静謐なコーダがあります。コーダでは全員がテールピース(駒の下の木の部品、弦を張っているところ)をユニゾンで弾きます。圧力をかければ割と音が鳴りますが、ここでは繊細に弾かれています。楽器の可能性を引き出しつつも、楽器にダメージがありそうな奏法を避けるグバイドゥーリナらしいです。

今までグバイドゥーリナの勉強をあまりしてこなかったことが残念に思えるほど、普通でない美しさがあり、新鮮な音楽でした。幸い他にもいくつか楽譜があるので、時間がある時にゆっくり読んでいきたいと思いました。

*「楽譜のお勉強」シリーズ記事では、著作権保護期間中の作品の楽譜の画像を載せていません。ご了承ください。

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