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ピアノの響きにどっぷり浸りたい

昨日2021年7月30日、ある演奏会のための初リハーサルがありました。8月28日にサントリーホールで初演される予定の新作、ピアノとオーケストラのための『ヒュポムネーマタ』(»Hypomnemata«, 2020-2021)のピアノ独奏パートの確認リハーサルでした。演奏会でピアノ独奏を担当していただくことになったのは、東京学芸大学で長年ピアノを指導され、今年の春に定年退職された椎野伸一先生です。椎野先生は私が学芸大在学中、一年次に副科ピアノを教わった恩師です。先生のピアノは、「これでもか」というくらいレガートが滑らかに歌い、毎レッスン恍惚として聴いていました。私が勉強させていただいたのは、一年間だけでしたので、それほど多くの曲を見ていただくことは出来ませんでしたが、バッハ、シューベルト、メンデルスゾーン、ドビュッシー、ベルク等の曲をレッスンしていただきました。

副科のピアノで一年間お世話になったことで終わらず、先生とは折に触れて音楽談義を続けてきました。先生のお話は本当に機知に溢れていて面白く、私の音楽の趣味嗜好の礎ともなっているものです。学芸大学大学院の修了時に、私はドイツに留学することが決まっていましたが、ドイツに渡ってからも様々な場面で応援していただきました。その頃もずっと椎野先生のピアノのファンでしたが、まさか自分が先生のために曲を書く日が来るとは想像もしていませんでした。

ドイツで学生をしているとき、将来どのように作曲を続けていくか、先の見えない日々が続いていました。しかし2013年、2014年と転機を迎えます。2012年にケルンで初演された『リヴァーシ』(»Reversi«, 2011)という管弦楽曲が2013年の芥川作曲賞(現・芥川也寸志サントリー作曲賞)にノミネートされ、更に2013年に発表した『アナタラブル』(»Unutterable«, 2012)も2014年に同賞のノミネート作品として日本で紹介されたのです。ドイツに渡って日本の音楽シーンとの繋がりも希薄だった中、ようやく日本の聴衆に認知されたことがとても嬉しかったです。

ノミネートされればもちろん受賞したい気持ちが強いですが、この2回のノミネートでは受賞することが出来ませんでした。しかし、当時私はありがたいことにいくつか並行して管弦楽曲の委嘱をいただいており、そのうちまたノミネートしていただければいつかは芥川作曲賞が取れるのかもしれない、と思い始めました。その頃からぼんやりと、「もし受賞できたら、記念委嘱作品はどんな曲を書こう」と考え始めていました。ピアノ協奏曲の影がチラホラ、そしてその背後に椎野先生のお顔も。しかしまだ現実味のないアイデアでしたし、先生にお伝えするようなこともありませんでした。

しかし人生とはそれほどトントン拍子に行くものではありません。その後発表した管弦楽曲のいくつかは、私の作品の中でもかなり納得のいくものがいくつか含まれるのですが、それらの曲のいずれもノミネートされることはありませんでした。2014年に発表した『エクソフォニー I』(»Exophonie I«, 2013-2014)は、シューベルトのレントラーとベートーヴェンのコントルタンツを下敷きにして、不思議な時間を作り出した作品で、私の近しい友人数人が現在も「稲森の最良の作品」と呼ぶ作品で、自分でも行き届いた作品だと思っています。また、2016年に発表した『虹に映る』(»Am farbigen Abglanz«, 2015-2016)も、4管編成で3つのグループに分けられた大オーケストラのための25分ほどの大作で、日本のオーケストラの優れた演奏で聴いてみたいと思っていた曲です。いずれも日本でご紹介できる日が来るかどうかは分かりません。

やはり2年も連続でノミネートしていただいたことは奇跡だったのだな、と楽観的な考えを改めました。そうこうしているうちに5年が経ち、歳もとりました。若手作曲家の登竜門として名高い芥川作曲賞に相応しい年齢がどんどん過ぎていく感じがして、私には縁のないものだったのかもしれないとも考え始めていました。そんな折、2018年に発表したアンサンブルのための作品『擦れ違いから断絶』(»Miscommunication to Excommunication«, 2018)が、2019年度の芥川也寸志サントリー作曲賞(この年から賞は改名)にノミネートされました。管弦楽の各楽器がほとんど1つずつ用いられていて(クラリネットは2本)、管弦楽として認めていただくには最小の編成だと思います。まさかそういった小編成の作品でノミネートしていただくことになるとは思ってもいなかったですし、2014年のノミネートから経った年数の長さから、本当にびっくりしました。しかもその曲で2019年度の受賞作品になったことが本当にありがたかったです。

芥川也寸志サントリー作曲賞を受賞すると与えられる新作の委嘱があります。ここで私は、「出来たらピアノ協奏曲を書きたい、そしてピアノは椎野伸一先生にお願いしたい」とサントリー芸術財団にお伝えしました。椎野先生に打診したところ、それはそれは驚いておられましたが、快くお引き受けいただけました。椎野先生は、以前は新作初演もたくさんしてこられた方ですが、最近はあまり新しい作品を弾いていらっしゃらなかったので、私もお引き受けいただけるか半信半疑でした。もし椎野先生が弾かないのならば、他のアイデアで作曲して、協奏曲は止めようとも思っていたのです。先生が私の音楽を信じて応援し続けてくださった年月と、私が自分の音楽性を育んで来た道程が8月28日のコンサートで一つの道になると思うと感慨深いです。

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演奏会のチラシに掲載されている新作の紹介文を引用します。

『ヒュポムネーマタ』は、私が東京学芸大学在学中にお世話になったピアニストの椎野伸一先生のピアニズムに触発されて作曲されました。ピアノが最初の音を発するまで、通常のピアノ協奏曲では考えられない長い時間を管弦楽だけが演奏します。物々しく展開する全合奏を制してピアノは最初に何を弾くのか、またピアノの初打の後、散乱した音楽を引き受けてピアノはどう展開するのか。ピアノの高貴な存在感に浸ることを願って作曲しました。

コロナの脅威が再び席巻している中、是非ともお出かけくださいとは言い難い状況です。しかしながら椎野先生のピアノの響きと私の音楽の言葉が紡いでいく音楽時間を、できるならなるべく多くの人に聴いていただきたいです。現在、チケットは発売中ですので、以下にリンクを貼っておきます。今年のサントリーホール・サマーフェスティバルも成功に終わりますように。


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