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メモ:花田 佳明教授 最終講義の感想

僕の母校、神戸芸術工科大学の花田先生がご退任されるということで、オンラインで最終講座が開催されました。

花田先生のnoteはこちら:https://note.com/hanadayoshiaki/

なんとオンラインでも400人を超える参加者が集まったとのこと。リアルだと芸工大の大ホールくらいの規模の人数。花田先生がこれまで築いてこられたものの現れなのだと思い、この貴重な会を拝聴できて本当に良かった。

僕が学生の時から、一貫して同じことを話されているはずなんですが、当時の僕にはほとんど「???」なことが多かった気がする。しかし、今聞くと確かにあの時から繋がっているし、脳に焼き付いていた映像が沸々と蘇ってきて、とても懐かしい気持ちになった。

最終講義のタイトルは

「自律的建築論と建築保存論 -感覚と論理と歴史の間で考えてきたこと-」

僕が思ったのは、花田先生は建築を語っているようで、実は「人間の在り方」にも通じるような倫理・哲学について語られているのではないかということでした。

そして、改めて「言葉にする」大切さについて気づかせていただいた。

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まず、自律的であることの大切さについて。

自律的の反対の言葉は当たり前だけど「他律的」だ。

僕の理解では、相対的にしかそのものの価値を定義・説明できないものに対して、そのモノ内部の言葉で定義できる価値や創造のプロセスがあるよね。というお話だったのかと思う。

どういうことかというと、建築や都市をデザインするときに、そのモノ自体には直接関係のないもの外部の情報を引用し、比喩としての値を代入して導かれるモノがあり、

一方で、その建築が建つことによって生まれるであろう空気感や出来事、人の動きなど、建築と周辺が持つ言葉だけで創造されるモノがある。

日本の多くの近現代建築は他律的建築だったということに対して、最近は自律的とも言える魅力的な建築がある。

僕の個人的な感覚としても、花田さんのいう「自律的な建築」により強く魅力を感じることが多い。

直接は関係のない、外部のよくわからないメタファーで作られる建築は、やっぱりよくわからないのだ。知的な頭の体操にはなるのかもしれない。でもそれが、単純な感動に繋がっているのかどうか、正直、全くわからなかった。

多分、今の20代、30代の多くの人が持ってる感覚はそんな感じなんじゃないかと思ってる。

その「なんとなく思ってたこと」が、花田先生によってとても明瞭に言語化していただいたので、めちゃくちゃスッキリした。

少し建築からは話を外して、もうちょっと一般的なことを考えてみます。

そもそも自分のことを思い返すと、高専から神戸芸工大への編入を決めた決断は、とても自律的な決断だったと思う。僕は一年留年しているが、その時はどうしても一定レベル以上の国立大に入りたい、建築学科として歴史や実績のあるところに入りたいというような、今から思うととても他律的な基準でしか自分の進路を考えれていなかった。

2年目もなかなかうまくいかないなぁと思っていたときに、花田先生に芸工大を案内していただいた。

とても丁寧に、僕一人のために時間を割いてキャンパスを案内していただき、なぜだかわからないワクワクを感じた。芸工大は偏差値的にはあまりよろしくないのだが、そんなことは関係なく芸工大に進学することを決めた。そこからの出会いや学びが今の自分を作っていることはあえて蒸し返す必要もない。

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もう一つは、「言葉にする」ことの大切さ。

一見、内側に閉じてしまいそうに見える「自律的な創造」は、本質的には全く逆で開いているモノだから勘違いしないでね、と、花田さんは話されていました。僕はそこには、「言葉にする」ということがとても重要な役割を果たしているんじゃないかと思いました。

ともすれば、独善的で、超個別解(アート的、とでもいえるような)、ハイコンテクスト(その人自身の人生体験から紡がれる感覚に依拠する部分が大きい)になりがちな自律的な創造プロセス。

それを他人への共感をもたらし、社会によって汎用的なものとして因数分解していくのが、言葉の力なのだなと改めて思った。言語化が必要か、必要じゃないのかが、アートとデザインを分ける境界なのかもしれない。

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今社会を見渡すと、果たして人は「自律的」でしょうか。

今回の講座を通して僕は、自律的な建築が好きなように、自律的な人が好きなんだなと気づいたし、自分自身も自律的でありたいと思った。

SNSの普及により、イイね数だけが行動原理になってしまう人たちや、ビジネスの世界でもやたらと無意味に群れたがる人たち、これから就活が始まり根拠のない不安に駆られて無意味に群れたがる学生たち。今回のウクライナ危機、コロナウィルス騒動の人々の反応も同じ要素があるように思う。

群れる=他律的 という乱暴なことを言うつもりはないけど、結局人は孤独だし、自分の中にあるモノでしか世界を見ることはできない。誰かの目を通してでしか自分を測れないと、いつかは破綻する。

人間を含めて、全ての生き物はとても全体性を持ったネットワークの一部でしかないけども、一方で自律性もないと成り立たない。とても矛盾したモノなんだと思う。

でもそれを超えて共同を生み出していくのが、「言葉」。

ホモサピエンスは元々はとても他律的な生き物なんだと思う。2022年の今でもそれはほぼ変わらない。そうじゃなきゃ戦争が起こる説明ができない気がする。

だからこそ、次の進化のためには自律性の獲得と、そのツールとしての言葉が必要。

だから言葉が必要なんだな。それが花田先生から教えてもらったことなのかもしれないと、以上メモ書きでした。

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