名都美術館『福田豊四郎と堀文子』展・その1

去る四月十四日、学芸員ギャラリートークを拝聴しつつ観覧してまいりました。
感じたことなど、思い出しつつ書いていきたいと思います。

堀文子『山』

盛り上がった山塊は、黄泉の国に至るまで根を張っており、自分の足元の地下にまでその裾が広がっている気がして、その奈落の底から伸びてきたような樹は、生臭いほどに赤く、まるで脈打つ血管のよう。
そんな印象から、片岡球子作品を思い出されました。
干支が一回り違うから同世代とは言えないでしょうが、同じ女子美術大学の出身であるし、どこかで交わることがあったのでしょうか。

堀文子『連峯』
福田豊四郎『木下順二「夕鶴」絵本原画』

広い空は、萌え出るような明るい緑なのに、はるかに遠い。巨大な墨色の山脈、さらにはその向こうにも氷の色の山脈が重なって、霜の色の大地はあまりに狭い。
かすかに、山脈の足元に縮こまるようにこびりついているのが、人の営みなんだろうか。
広くて、新緑のように暖かい空なのに、鳥すらいない。『連峯』がそんな、恐ろしく寒々とした風景に見えたのは、たぶん、直前に『絵本「夕鶴」原画』を見たせいなのでしょう。
悲しい物語の最後のシーンにしては、大きく堂々とした鶴の姿は、力強さすら感じて、まだ青空の残る赤い空も桃色のようで、暖かくて、田畑や村々も明るい生活を思わせて、広げられた翼の下に守られているように見えるのでした。
これは、絵本を読む子供たちのために、悲しい物語をただ悲しみだけで終わらせまいという、福田豊四郎の人柄だったのでしょうか。

福田豊四郎『雪のきた国』

凍った湖の上で、スケートや橇などで遊ぶ子供たちの姿。
第一印象では、ブリューゲルの作品を思い起こしました。
けれど、科の作品の赤茶けた光景は、固くとがっていたのですが、こちらはなんとなく青いような、緑のような空気に、ふうわりと柔らかくぼやけていて、やはりこれは夢かまぼろしか、美しい思い出の景色なのでしょう。
氷というにはあまりにも柔らかそうな湖の上で、芥子人形のような子供たちはみな同じ姿だけど、その表情は小さいながらも描かれている。でも、その輪にも湖にも入ることができず、一人ぼっちで岸に立つ子は背を向けていて、顔は描かれず衣装も違う。
言葉にすれば陳腐になる考えが浮かんでしまいます。
でも、この子はひょっとして、湖に遊ぶ子らを見ているのではなく、その向こうの、雲のように天に向かう山の頂の、まばゆい輝きを見ているのかもしれない。
そのふもとの、綿帽子を被った村に暮らす家族を想っているのかもしれない。
ただ、画面の左右に、ごくわずか、ささやかに射しこまれた、冬景色には不似合いなほど、明るくみずみずしい緑色は、子供たちやこの世界を見つめる眼差しそのものだ、それはきっと間違いのない事でしょう。

福田豊四郎『街景』

この絵に描かれた街角は、豊かで、華やかで、楽しげで、明るくて、戦前などという名前には、およそ似つかわしくない。
太平洋戦争という出来事が、あまりに強く意識されるせいで、戦後の日本を生きる身としては、戦前という時代がどういうものだったのか、まるで分からないのです。
大正デモクラシー、カフェーに活動写真に宮沢賢治、などと断片的なイメージはあるものの、二・二六事件や五・一五事件、関東大震災や世界恐慌、上海事変に日中戦争、太平洋戦争に向かっていく時期という印象が強すぎる。
そんな、戦争のイメージそのものである「肉弾三勇士」なのに、その言葉が浮かんでいるのは、華やかな街角の、明るい空に揚がったアドバルーンの垂れ幕というのは、なんとも奇妙です。
画面の構成からして、このぽっかり開いた右上の空には、確かに何かを描きこみたいところ。
鳥でも、飛行機でも、風船でも、この風景にふさわしいのは、もっと楽し気なものではないか。それこそアドバルーンだって、ロサンゼルスオリンピックでも、小津安二郎でも宣伝すればよかったのに。
それでも、「肉弾三勇士」を選んだのはなぜでしょう。
それは、画家の時代を感じる感性なのか、触れずにいられなかった意志なのか。

福田豊四郎『南瓜と少年』

硬い筋が貫く蔓の伸び様といい、大きな葉をピンと広げる葉脈の強い張り、見るからに痛そうなガクに締められた黄色い花弁の柔らかで瑞々しい感じや、細く巻いた髭蔓の螺旋の艶めかしさなど、南瓜はリアルに描かれている。
泥も土もついておらず、陰影すら排除するほどに、南瓜のみの存在を示すことに徹底している。ただ、一滴の露のみが、その葉の質感を証明するように乗っているだけ。
その一方で少年の描写は、単純化され記号化され、衣服の縞などは概念といっていいほど。
地面に立っているのか、南瓜の前にいるのか後ろにいるのかすら分からずに、ぼんやりと青い空間に浮かんでいる。
こんなに描写の方向性が真逆なのに、むしろそれでこそ調和しているというか、そうでなければ成立しないという必然性が、この絵の凄みなのでしょう。
南瓜を挟んで向かい合う、蝶とカマキリも、緊張感を加えているのか、あるいは童話のような面白みを添えているのか。
考えながら見れば、謎ばかりの絵なのに、ただ感じたままに見るのであれば、スゥと胸に収まって落ち着くのはなぜでしょう。本当に不思議な絵です。

福田豊四郎『金華山』
福田豊四郎『山脈』

金華山は岐阜ではなく宮城の島とのこと。島なのに、手前の波は川のように泡立っていて、まるで渓流を見下ろす山のよう。
対してもう一方の作品は、描かれているのは山脈なのに、雲海に囲まれた景色は島のようです。
金華山は見上げるように描かれていて、それは、岸辺の松の間を右に左に駆ける鹿たちと同じ目線。
重なり合う松の枝と山の峰が、木目のようにうねる空にかき回されているようで、交じり合い、どこからどこまでが松葉で岩肌なのか、見れば見るほど分からなくなる。
そのうちに、鹿たちすらも松の幹のうちに隠れていってしまいそう。
山脈はその上を一直線に渡る鳥の姿が描かれていて、まさに、その全てを高い空から見下ろす鳥の目線で描かれている。
こちらは明確で、金と銀に光る雲海に、赤い山脈と青い山脈の二つきり。混ざり合うものなどない、明確な形。ただ、赤い山脈と青い山脈は向かい合って、まるで陰陽の巴のように今にも互いを巻き合おうとしているかのよう。
混沌とした金華山と、はっきりと陰陽に区切られた山脈。
ミクロな視点の金華山と、マクロな視点の山脈。
正反対の二つの作品が、隣り合って響き合う有様に、まったくめくるめく想いをさせられました。

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