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小平慧評 巽孝之『慶應義塾とアメリカ――巽孝之最終講義』(小鳥遊書房)

評者◆小平慧
「失われた大義」をキーワードにして無数の作品・事象にチューニング――「最終」の題目をひそかに裏切る知的続投宣言
慶應義塾とアメリカ――巽孝之最終講義
巽孝之
小鳥遊書房
No.3567 ・ 2022年11月19日

■米文学者として慶應義塾大学文学部英米文学専攻で長く教鞭をとってきた巽孝之氏が、定年退職にあたり二〇二一年三月十三日に行った最終講義を含め、三つの論考が収められた本書。「最終」とくれば反射的に著者の集大成とでも呼びたくなるが、そうひと言では片付けられない企みのある一冊だ。
 講義の内容にあたる第一部「最後の授業――慶應義塾とアメリカ」をつらぬくキーワードは「失われた大義(Lost Cause)」。米国史の文脈でいう「失われた大義」とは、南北戦争に敗れた南部側が自らにとっての「大義」を主張した、イデオロギーであり「神話」である。同時にこのフレーズは英語の成句として、「負け戦」の意味をもつ。
 著者はこの概念を軸とし、応用しながら、フランスの作家アルフォンス・ドーデの短編「最後の授業」を皮切りに、一九三九年のフランク・キャプラ監督の映画『スミス都へ行く』を経由して、慶應義塾の創設者である福澤諭吉の著作『瘠我慢の説』へと論をつなげる。「脱亜入欧」を唱えた近代主義者で、戊辰戦争の最中も戦火を尻目に経済学の洋書を講じつづけた福澤だが、一方で、失われつつある封建的な武士道の「大義」を擁護した。矛盾する二つの福澤像が、「負け戦」を戦う「瘠我慢」の精神をキーワードとして統合される。著者は「Lost Cause」という言葉のもつ意味の幅をめいっぱい使って、さまざまな作品や事象にチューニングを合わせる。
 第二部の論考「モダニズムと慶應義塾」では、二十世紀初頭に隆盛した欧米のモダニズム芸術運動に、日本の一大学がどのように関与したのかをさぐる。ここでの中心人物は二人。慶應義塾を中退して十八歳で渡米し、英文詩集を刊行して国際的に名を馳せ、日本の俳句を英米に紹介した野口米次郎(ヨネ・ノグチ、一八七五~一九四七年)と、同じく慶應義塾を卒業後に英国で学んだ英文学者・詩人の西脇順三郎(一八九四~一九八二年)である。
 対する西洋側の登場人物の一部を挙げるなら、俳句に感銘を受けた詩人・批評家のエズラ・パウンド、ビジュアルな表象媒体としての漢字に惹かれた東洋学者のアーネスト・フェノロサ、名詩「荒地」で知られるT・S・エリオットなど。洋の東西でいかに彼らの思想や詩学が共振し、言語的・文化的レベルでの相互翻訳を行ったかを描き出したうえで、ノグチと西脇をモダニズム芸術運動の歴史のなかに位置づけるのがこの第二部である。
 むろん、こうして議論を要約してしまうことには危険がつきまとう。巽氏の著作に以前から親しんでいる者は今さら驚かないだろうが、ここに挙げきれない膨大な文化史的な出来事、人物や作品が次々と本論に接続されるからだ。一九一二年に起こった豪華客船タイタニック号の沈没事故はその意外な一例だが、ときに実証的に、ときに「奇遇」に導かれるようにして論に組み込まれるこれらのディテールなくして、本来この本は語れない。対象を個々に「分析」するのはもとより、より大きな文脈につなげるべく「展開」することこそ著者一流の手腕なのだ。
 第三部「作家生命論の環大陸」の主題は、著者が自らのライフワークと位置づける「作家生命論」。巽氏のいう作家生命とは、本人の存命中だけでなく死後の文学史上での生き残りや再評価を含めた、作家のサバイバル方略を指す。中心に置かれるのはマーク・トウェインの晩年の戯曲『彼は死んだのか?』である。主人公は農村風景の絵画で知られアメリカでも人気を博したフランスの画家ミレー。借金で首が回らなくなった無名時代の彼が、自分の死を偽装し、さらには異性装により架空の妹になりすまして高利貸しに一杯食わせるという筋書きは、だいたいが史実ではなくトウェインの創作だ。
 著者は、エドガー・アラン・ポーからトウェインを経て中国系劇作家ホアンのブロードウェイ演劇『M・バタフライ』へつながる「異装」の物語の系譜をたどる傍ら、トウェインの戯曲を「高度資本主義文学市場でプロフェッショナルとしての文筆家が作家生命を持続させるにはどのような方策がありうるか」の見取り図として読み解き、その策を三つの「法則」として抽出して見せる。
 特に本書全体にとって重要なのは、円熟期を過ぎた作家が同じ作風を繰り返すいわゆる「自己剽窃」を、作家生命を延長する方策としてポジティブにとらえ直している点だ。「そのマンネリズムないしマニエリスムはやがて芸術家独自のスタイルとして確立することになり、まさにそれを模範として模倣し改良する後続世代が現れ、後続読者も後続観客も現れる」という文が、本書の終わり近くに置かれているのはけっして偶然ではないだろう。この一節は「最終」という本書の題目をひそかに裏切る企みであり、著者の知的営為の続投宣言、さらにその継承と創造的「剽窃」を読者に促すメッセージとして受け止めたくもなるからである。
(翻訳者/ライター)

「図書新聞」No.3567 ・ 2022年11月19日(土)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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