見出し画像

古森科子評 ケイレブ・アズマー・ネルソン『オープン・ウォーター』(下田明子訳、左右社)

評者◆古森科子
「きみ」の目を通して見る世界――主人公の名前をあえて明かさないこの物語に、ロンドンで暮らすすべての黒人、ひいては手に取ったすべての人の心に響く、黒人として生きる現実を読み取ることができる
オープン・ウォーター
ケイレブ・アズマー・ネルソン 著、下田明子 訳
左右社
No.3599 ・ 2023年07月15日

■本書にはガーナが出てくる。アフリカのどこだったか……? 思い出そうとしたが、はっきりしない。「きみ」の両親の故郷の位置すら把握できていないなんて……と恥ずかしくなった。
 写真家の「きみ」とダンサーの「彼女」は、サウスイースト・ロンドンの地下にあるパブで出会い、互いに惹かれ合う。都会の喧騒のただなかで徐々に距離を縮めていくふたりは、一見どこにでもいる若者で、よくある”ボーイ・ミーツ・ガール”の物語のようでもある。パブで友人たちと楽しく語らうふたり。イヤホンをシェアして同じ音楽に耳を傾けるふたり。デリバリーのピザを注文して夢中でほおばるふたり。いつでも携帯で連絡を取り合い、会いたくなったらすぐに会える「きみ」と「彼女」は、好きな音楽や芸術に包まれていて、幸せで、充実した日々を送っているようにもみえる。だが、読み進めるうちに「きみ」の現実や、「きみ」が抱えている思いが次第に浮かび上がってくる。親しくなるほどに、自分の本当の気持ちを伝えられない「きみ」に「彼女」は感情を爆発させ、やがて物語は核心へとつき進む。
 本作品の冒頭で、「きみ」の両親は祖母の葬儀のため故郷のガーナを訪れている。ひとりになって一週間が経つ「きみ」は、両親にも、家を出ている弟にも電話をかけられないまま、うまく言い表せない思いを持て余すうちにキッチンの床に崩れ落ちる。泣きじゃくる「きみ」からは祖母の存在の大きさが、行き場のない喪失感が、痛いほど伝わってくる。「きみ」のトラウマ、恐怖、不安、絶望。それらはすべて、「きみ」の「まだ生きてもいないのに死にたくない」という魂の慟哭に凝縮されている。「彼女」にしても、程度の差こそあれ、似たような生きづらさを抱えている。「きみ」から生きがいについて訊かれ、こう答える。「ダンスかな……誰かに見られてるときって――ふだんの暮らしでの話よ――必ず誰かに判断されるじゃない。でも生きがいに夢中になってれば……生きがいがあれば、あたしは自分で選べる」。そうしたなかで「彼女」は、自分らしく生きることができる新たな生活の場をダブリンに見つけ、引っ越していく。「ここなら息をしてもいいんだと思ったの」と言い残して。一方の「きみ」は、「彼女」との心理的な距離が縮まれば縮まるほど、自分をさらけ出すことができず、「彼女」との関係に陰りが見えはじめる。作品の後半では、床屋での場面を皮切りに、抱え込んでいた「きみ」の思いが、誰にも伝えることのできなかった思いが一気に溢れ出す。
 二〇二一年に発表された本作品は、二〇二一年に英国コスタ賞新人賞、二〇二二年にはブリティッシュ・ブック・アワード受賞を受賞している。自身もガーナ人の両親を持つ著者のケイレブ・アズマー・ネルソンにとっては、この小説が長編デビュー作となる。小説のタイトルである〈オープン・ウォーター〉は〈大海原〉を意味し、ふたりの置かれている現状が示唆されているほか、自分たちの目の前に広がる〈大海原〉に立ち向かうふたりの姿勢が対比的に描かれている。
 訳者あとがきで訳者の下田明子さんが、「ふたりの名前が明かされないことで、私は、これがロンドンで暮らすすべての黒人に捧げられた物語であるかのような印象も受けた」と述べているように、主人公の名前をあえて明かさないこの物語に、ロンドンで暮らすすべての黒人、ひいては手に取ったすべての人の心に響く、黒人として生きる現実を読み取ることができる。
 英語には”in someone's shoes”というフレーズがある。直訳すると「他の人の靴を履いて」だが、「相手の立場になって(考える)」という意味がある。このフレーズになぞらえると、本書の読者は、”through `your' eyes”、つまり「「きみ」の目を通して」(「きみ」の立場になって)この世界を見ることができる。そして読み終えるころには、恥ずかしいのはガーナの位置がはっきりしないことではないと気づく。本当に恥ずかしいのは、はっきりしないままで良しとし、事実を知ろうとしないことだ。「きみ」のルーツを。「きみ」が周囲にどう見られているかを。「きみ」がどんな思いで日々過ごしているのかを。「きみ」の目の前には、どんな現実が広がっているのか。どんな現実を「きみ」は生きているのか。ぜひ本書で確かめてほしい。
(翻訳者)

「図書新聞」No.3599・ 2023年07月15日(土)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?