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渡邊真里評 J・M・クッツェー『ポーランドの人』(くぼたのぞみ訳、白水社)

評者◆渡邊真里
言葉と気持ちの一方通行が生む恋愛の悲喜劇――幻想を抱かれる女性の心理を鋭く描くクッツェーの恋愛小説
ポーランドの人
J・M・クッツェー 著、くぼたのぞみ 訳
白水社
No.3603 ・ 2023年08月12日

■J・M・クッツェーは一九四〇年、南アフリカのケープタウンで生まれ、第一言語を英語として育った。『マイケル・K』と『恥辱』で二度のブッカー賞、二〇〇三年にはノーベル文学賞など、数々の賞を受賞した。これまで作中でさまざまな問いを投げかけ、読者を考えさせてきた現代屈指の重要作家のクッツェーによる恋愛小説が、この『ポーランドの人』だ。
 詩人ダンテとその想い人であるベアトリーチェをモチーフとした物語は、スペインからはじまる。バルセロナの「どちらかという裕福な」人々が訪れるコンサートに、ショパン弾きとして名を馳せたポーランド人ピアニスト、ヴィトルトが招待される。その演奏は「ロマンチックとはいえず、逆にどこか禁欲的で、バッハの継承者としてのショパン」を思わせる。ヴィトルトの接待を任されたのが、コンサートの運営係ベアトリスだ。「深淵な質問」を投げかけ、「安らぎをあたえてくれる女性」であるベアトリスにヴィトルトは強く惹かれ、ブラジルへの駆け落ちを持ち掛ける。ヴィトルトは七十二歳、ベアトリスは四十九歳で、銀行員の夫と成人した息子がいる。ベアトリスは申し出には応じられないと伝えるが、ヴィトルトは帰国後もなお彼女に求愛し続ける。翌年、ヴィトルトがマヨルカ島でのコンサートのため、再びスペインを訪問。近場に家族の別荘があるベアトリスは、彼をランチに招き、三日間だけの関係を持つ。ヴィトルトを愛していたからではない。「自分がまだ魅力的」だという証拠が欲しかったのだ。それを最後に、ベアトリスはヴィトルトには二度と会わないと決める。その数年後、彼の記憶を完全に消去していた彼女のもとに、ドイツからピアニストの訃報が届く。連絡してきたのはヴィトルトの娘だった。ベアトリス宛ての遺品があるが、自分はベルリンに住んでいるので送れない。必要であればワルシャワにある彼の自宅まで取りにきてほしいという。ワルシャワに向かったベアトリスが受け取ったヴィトルトの遺品は、詩篇だった。ヴィトルトは死ぬまでベアトリスを愛し、ダンテの『新生』や『神曲』に倣い、その想いを綴っていたのだ。だが彼が母語であるポーランド語で書いた詩を、ベアトリスは理解できない。そこでポーランド語の翻訳者を探し出し、ピアニストの言葉を理解しようと決意する。
 母語も世代も異なる男と女。その間に一貫して描かれるのは、言葉と気持ちの一方通行だ。一九六七年のスペインで生まれたベアトリスと、一九四三年のポーランドで生まれたヴィトルト。母語の異なる二人は英語で意思疎通を図るが、流暢な英語を話せるベアトリスに対して、ヴィトルトは「朴訥な」英語しか話せない。身振りが肯定か否定かを解釈する手立てもない。ショパンの調べすら、ベアトリスは彼の演奏がひどくドライで堅苦しいと感じている。愛が言葉の壁を超える物語は数多くあるが、本書はそうはいかない。ダンテがベアトリーチェを熱烈に崇拝したように、ヴィトルトもまたベアトリス(ベアトリーチェのスペイン語名)を崇拝し、愛を捧げる。だが「永遠の淑女」ベアトリーチェと違い、ベアトリスは物言わぬ崇拝物ではない。本書では「十九世紀的ロマンスの恋情と加齢という切実な問題を七十二歳のピアニストが体現し、それを分析する現代女性の役をベアトリスが引き受け」(訳者あとがき)ており、老齢で独りよがりなヴィトルトに向けられる彼女の眼差しは、辛辣で手厳しい。彼女は「恋する老人」を「愚かし」く「哀れ」に感じ、自分に何も質問してこないのは幻想を崩さないためだと分析する。なぜ自分なのか? 自分は「ベアトリーチェ」でも彼の言う「慎み深い女」でもないのに。ベアトリス自身が言うように、自分がヴィトルトの言葉と気持ちを理解できないことで、彼に幻想を抱かせることになったのであれば、皮肉としか言いようがない。
 本書の後半にあたるヴィトルトの死後、この言葉と気持ちの一方通行は、彼の詩を理解しようとするベアトリスの行動や、いくつもの国の第三者を介して融解へ向かう。また、それまでほぼベアトリスの視点でしか描かれていなかったヴィトルトが、彼の故郷やその母語を知る他者により静かに語り直される。ここにおいて、窮屈な幻想を抱かれていたのはベアトリスだけではなかった可能性が示される。特に、ヴィトルトの詩の翻訳者による「ほかのみんなのようにドライでアイロニックじゃないところがいい」という評は、母語と思考の表出との結びつきを考えさせられる。
 『神曲』の原題が「神聖喜劇」であるように、本書は「視点をズームにすれば赤裸々な愛の悲劇」であるが、「ロングショットにするとピリ辛の喜劇」(訳者あとがき)である。ヴィトルトの詩は決して傑作とは言えないが、死んでなおヴィトルトに新たな生を与えうるのは、彼の「情熱」に他ならない。「禁欲的な」ショパンを想像しながら味わってほしい一冊だ。
(翻訳者/ライター)

「図書新聞」No.3603・ 2023年8月12日(土)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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