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西崎さとみ評 トマス・ハーディ『恋の霊――ある気質の描写』(南協子訳、幻戯書房)

評者◆西崎さとみ
三人のアヴィシーを愛した男――理想の女性像を追い求めて
愛と芸術に生涯を捧げた男の心情を抒情豊かに綴った、ハーディ最後の長編小説
恋の霊――ある気質の描写
トマス・ハーディ 著、南協子 訳
幻戯書房
No.3593 ・ 2023年06月03日

■トマス・ハーディは、ヴィクトリア朝最後の文人として詩や長編小説、短編小説、戯作など数多くの作品を残した。中でもよく知られているのは、性愛をテーマとした『テス』(一八九一年)や『日陰者ジュード』(一八九五年)であろう。本書は、これらとほぼ同時期に執筆された長編小説の新訳である。当時、世間の批評に嫌気がさしていたハーディは、これを最後に、長編小説を書かなくなり、以後は詩作に専念するようになる。本作は主人公ピアストンの揺れ動く感情が静謐な筆致で描かれている。「恋の霊」という理解しがたい気質を持つこの男が、母娘三代にわたる女性たちとの関係を通して、何を見出したのか。読者はピアストンの心の動きと共にそれを探っていく。
 舞台はロンドンとイギリス海峡に面した半島の田舎町。そこは本土と細長い小石の道で繋がってはいるが、ほとんど島と言ってもよい。二十歳のジョスリン・ピアストンは石灰岩でできたこの島を珍しいものを見るように眺めていた。青い海と白い石灰岩、陽の光できらめく岩肌、美しい光景だ。出だしから、ハーディ独特の抒情的な世界に引き込まれる。
 第一部では、故郷に帰ったピアストンが幼馴染のアヴィシー・ケアロウと出会った時のことが描かれている。二人は婚約してすぐにロンドンに行く約束をするが、いざ島を出る段になると、古い慣習を重んじるアヴィシーは約束の場所に現れなかった。折しも、アヴィシーとは正反対の自由奔放な島の娘マーシャと出会い、「恋の霊」が宿る。またも婚約するが、「恋の霊」はすぐにどこかに移動し、今度も結婚に至らない。マーシャとは晩年に再会することになる。こんな風に「恋の霊」はすぐに新しい女性へと移動する。
 一方、ピアストンに去られたアヴィシーは、島の男と結婚したが、若くしてこの世を去る。手紙でアヴィシーの死を知ったピアストンは衝撃を受け、彼女を本気で愛してやれなかったことを悔やんだ。罪の意識とともに、アヴィシーへの執着心が芽生えたのはこの時だったのかもしれない。
 それでも順調に、ピアストンは彫刻家としての地位を築き、四〇歳になった。そして、アヴィシーの娘アン・ケアロウ(アヴィシー二世)と出会う。第二部では、アヴィシー二世に対するピアストンの恋心が描かれる。第三部で、六〇歳になったピアストンは、今度はアヴィシーの孫アヴィシー三世に「恋の霊」を見る。しかし、不思議な巡りあわせによって、意外な結末を迎える。
 「恋の霊」、それはピアストンにとって理想の女性像であり、芸術的才能に力を与えるものだ。だが、なぜピアストンは母娘三代にわたる女性たちに理想像を重ね、執着したのか。そもそもアヴィシーを失っていなければ、美化することもなかっただろう。作中でピアストン自身が語っているように、理想の女性は故郷スリンガーズ島の血を引いていなければならかった。島の血を引く、もっと言えば、アヴィシーの血を引く、母親に生き写しのアヴィシー二世は、その時のピアストンの目に理想の女性像と映った。彼はアヴィシー二世のことを「彼女は長年追い求めた「恋の霊」の化身として――彼自身が意図したのではなく超越的な力によって再登場する媒体として選ばれた」、「過去から蘇った精霊」などと言い表している。だが、訳者解題の中で「生物としてのピアストンの心の中の描写は、見たり聞いたりして認識して、人間が情念に導かれて心の中に作る世界」と示されるように、こういった運命的な恋は、ピアストンの心に内在する意思によって作り出されたものであると言える。それは、ハーディ自身が、古き良きドーセットという土地に固執し、人の運命は内在する意思の中に存在すると信じていたことからも窺える。さらに、ハーディは人間を生物の一種と考える自然科学思想をダーウィニズムから取り入れており、ピアストンにとってアヴィシー三世は遺伝によって受け継がれた知性と美貌を併せ持つ最も理想的な女性像だった。
 従って、アヴィシー三世が去ると、ピアストンから「恋の霊」も芸術的才能も消え去り、同時に「恋の霊」の呪縛から解放されたピアストンの心に安らぎが訪れる。ハーディの描く情景は詩的だが、とても自然だ。ハーディに馴染みのない人にも読みやすく、なおかつハーディ特有の言い回しが味わえるようにという、訳者の努力が功を奏しているからだろう。巻末の注釈や年譜、訳者解題も、非常に面白く充実した内容になっている。読者の知的好奇心を満たしてくれるに違いない。
(翻訳者)

「図書新聞」No.3593 ・ 2023年06月03日(土)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。







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