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江戸智美評 柴田元幸編訳『アメリカン・マスターピース 準古典篇 (柴田元幸翻訳叢書)』(スイッチ・パブリッシング)

評者◆江戸智美
匠の技――二十世紀前半という激動の時代に執筆・発表された作品の中から、「編訳者が長年愛読」してきた「名作の誉れ高い作品」を選び抜いたアンソロジー
柴田元幸翻訳叢書 アメリカン・マスターピース 準古典篇
シャーウッド・アンダーソン他 著、柴田元幸 編訳
スイッチ・パブリッシング
No.3614 ・ 2023年11月11日

■表紙カバーを飾る写真、ウォーカー・エヴァンズの「アラバマ州ヘイル郡綿小作人フロイド・バローズのワークブーツ」を見た途端、渋いブルースが頭の中を流れた。映画『マ・レイニーのブラックボトム』(原作‥オーガスト・ウィルソン)のワンシーンを思い出す。ブルース歌手マ・レイニーのレコーディングを控え、シカゴのスタジオでバックバンドがリハーサル中、中年のピアノ弾きが履いている作業靴(brogan)は時代遅れだと若きトランペット吹きが揶揄する。くるぶしまで覆うワークブーツは南部出身の貧しい小作人の象徴であり、野心溢れる若者は流行りのジャズで踊るために、と有り金はたいてお洒落なフローシャイム(Florsheim)の靴を買い悦に入る。南部と北部、田舎と都会、ブルースとジャズ――二十世紀前半のアメリカ社会はさまざまな価値観の間で揺れ動いていた。
 本書は『アメリカン・マスターピース 古典篇』に続く準古典篇として、二十世紀前半という激動の時代に執筆・発表された作品の中から、前作同様「編訳者が長年愛読」してきた「名作の誉れ高い作品」を選び抜いたアンソロジーだ。本書に収められた十二の短篇の中で、写真のようなワークブーツを履きそうな登場人物はウィリアム・フォークナーの「納屋を焼く」の父親だろう。雇用主を「俺の身も心も所有する気でいる男」と敵視する父親は、馬糞の山をまともに踏みつけると、そのまま高級フランス製敷物の上を歩き足跡を残す。汚れを取れと命じられると、石でこすって擦り傷をつけるような男だ。「高潔さを保つための唯一無二の武器として」炎を使う「放火魔」の父親に反発する少年は、社会が求めるモラルと正義を理解しているが、「自分で選ぶのを許されたのではない古い血」に逆らうことはできない。だが激しい葛藤の末、最後にはうしろをふり返らず走りつづける。常に父と兄の背中を見て歩いていた少年はどこへ向かったのだろう。
 アーネスト・ヘミングウェイの「インディアン村」でも、息子のニックが父と叔父のあとをついて、草地を抜け、森の細道をたどり、材木道路を進む。たどり着いた先で見たのは壮絶な生と死だ。父と息子の関係性はウィリアム・サローヤンの「心が高地にある男」にも描かれており、ヘミングウェイとは対照的なスタイルを堪能できる。ふらりと訪れた男をもてなしラッパを演奏してもらうため、父から食糧調達を命じられた少年が店の親父相手に弁舌を振るい、言葉巧みに言いくるめる。六歳未満とは思えないソクラテス張りの問答が愉快である一方、ラッパの演奏に涙するご近所の皆さんの想いが沁みる。
 「歩く」という行為に焦点を当てると、ユードラ・ウェルティの「何度も歩いた道」がまさに老女が街へと向かう道のりを描いている。小川に渡した丸太、有刺鉄線の柵、背丈ほどもあるトウモロコシ畑の迷路は老女の人生に立ちはだかった困難のメタファーだろうか。かかしを幽霊かと思って驚いたり、街に着いた途端、記憶が飛んでしまったりと危なっかしい老女だが、作者のまなざしはやさしい。本作品は「白人女性である作者が黒人の老女の内面に敬意をもって寄り添っている作品」だと編訳者あとがきにあった。
 反対に、黒人作家が白人の少年の視点で書いた作品がラルフ・エリスンの「広場でのパーティ」だ。一九四〇年頃に書かれたがエリスンの没後発見され、一九九六年に出版されたという。この作品には、ビリー・ホリデイの歌でよく知られる「奇妙な果実」の歌詞の意味を知ったときと同じような衝撃を受けた。目を背けたくなるアメリカ社会の一面を真正面から描いた作品であり、だからこそ本書に収録されたのだと思う。多くの読者に届いてほしい。
 イーディス・ウォートンの「ローマ熱」は、先に紹介した作品群とは一味ちがう。「盛りを過ぎた、だが身なりの整った中年のアメリカ人女性二人」がどちらも娘連れでローマを訪れている。なんとも優雅な話ではないか。興味深いのは、時とともにローマのもつ意味が変わってきたという指摘だ。祖母の世代は病気のローマ熱を恐れたが、母世代は「センチメンタルな危険」を心配して娘(つまり自分たち)を家から出さないように苦労した。自分たちの娘にとってはもはや「田舎町の目抜き通りの真ん中ほどの危険」もなく自由に遊び歩いており、女性の生き方の変化がうかがえる。子供のころから親しかった二人だが、お互いに長年秘密を抱え、内心では相手を哀れんでいた。本書の巻頭におかれた「グロテスクなものたちの書」でシャーウッド・アンダーソンが描いたグロテスクな人間そのものではないか。とはいえ、ウォートンがたっぷりのユーモアと皮肉を込めて描く二人の言葉には思わず苦笑を誘われる。ただ、最後のアンズリー夫人のひとことには、読者もスレード夫人と同じくらい動揺するかもしれない。
 表紙の写真から連想したブルースといえば、もともとは口承で伝えられてきた音楽である。本書の中で口承文化の特徴がよく表れているのはゾラ・ニール・ハーストンの「ハーレムの書」ではないだろうか。ハーストンは民俗学者としてフィールドワークを行ったこともよく知られている。民話、風習などを採取して歩いたからこそ、人々の生き生きとした口調を再現できるのだろう。たとえば「比類なく格好好き肌茶色なる者たちを数多見たり」と大仰な物言いをしたかと思うと、続けて「いやそれが心臓止まるかってくらい美人のピンク・ママとかいるわけよ」とやけに軽い口調で話しかけてくる。この奇妙な言葉のコンビネーションはノリもよく、癖になりそうなほど楽しい。編訳者によると、「旧約聖書(とりわけ、有名な一六一一年の英訳King James Version)の文体と一九二〇年代の文体が混じっているため、類似の語句が出てくる箇所をKing JamesVersionでサーチし、該当箇所が日本聖書協会文語訳でどうなっているか」を参考にされたとのこと。地道で気が遠くなりそうなプロセスを経てこそ、この魅力ある文体が生み出されたのだ。本作品の主人公ジャズボはハーレムでダンスに興じるのだが、その時代の名残がF・スコット・フィッツジェラルドの「失われた十年」に見え隠れする。高層ビルの立ち並ぶニューヨークもまた同時代のアメリカの顔である。 
 十二人の作家のさまざまな短篇をちびちびと味わえるのは本書最大の魅力だろう。二十世紀前半という縛りの中でも作品のテーマ、舞台、文体の多彩さ、豊かさにあらためて圧倒される。多様な声を一人の翻訳者がいかにアレンジし響かせるのかという〈匠の技〉も見逃せない。本書はカラフルでいろんな味のジェリービーンズ詰合せのようなアンソロジーだ。レコードならジャンルを超えたコンピレーションアルバム。〈ジャケ買い〉して未知の音楽にめぐり会った興奮がよみがえる。きっとお気に入りのフレーバーや音楽が見つかるだろう。
(大学講師)

「図書新聞」No.3614・ 2023年11月11日(土)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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