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水野美和子評 ティモシー・ワインガード『蚊が歴史をつくった――世界史で暗躍する人類最大の敵』(大津祥子訳、青土社)

評者◆水野美和子
人類は蚊の“掌”の上
蚊の容赦ない人類への干渉と、人類からのささやかな抵抗の数々――本書はさながら蚊に関する百科事典だ
蚊が歴史をつくった――世界史で暗躍する人類最大の敵
ティモシー・ワインガード 著、大津祥子 訳
青土社
No.3615 ・ 2023年11月18日

■本書はさながら蚊に関する百科事典だ。どこから読んでもびっくりのエピソードが並んでいる。子どもの頃に大好きだった学研まんが「ひみつシリーズ」の興奮を思い出す。
 描かれているのは、蚊の容赦ない人類への干渉と、人類からのささやかな抵抗の数々である。人類の歴史上のいくつもの転換点が、日本の夏におなじみの蚊のせいだという。歴史を作るのは偉大な英雄の決断ではなく、儚い蚊の一刺しだったのだ。
 衝撃的だったのは「蚊による死者数は過去の全人類の半分近く」(8頁)。人類の二〇万年の歴史を通して累計一〇八〇億人が生まれ、そのうち五二〇億人が蚊に殺害されている。原因は蚊が伝播する疫病で、有名なのは黄熱とマラリアである。
 日本で暮らしていると、蚊に刺されるくらいで死ぬなんてピンとこないけれども、例えば日本脳炎は蚊から感染する。黄熱とマラリアは現在でもアフリカで多数が感染し、亡くなっている。
 蚊は人類の”進化”にも影響を及ぼす。人類がまだアフリカに生息していた約八〇〇〇年前、農業が盛んな場所に蚊が増殖しマラリアが蔓延した。それから七〇〇年もかけて、赤血球が鎌形になる突然変異が起きた。
 マラリア原虫は蚊を介してドーナツ形または楕円形の赤血球へ潜り込むことで人間に寄生する。しかし鎌形赤血球では潜り込めない! だからマラリアに感染しない。すごいぞ! 進化万歳! ……などと感心してはいられない。
 実は、鎌形赤血球の人は平均寿命が二十三歳。短命すぎる。しかもこの鎌形赤血球の因果をたどれば、蚊のせいで奴隷制度が始まったともいえるのである。
 鎌形赤血球によるマラリア耐性を得たバントゥー系諸族は、軍事的にも強くなり農業に適した土地を征服していった。負けたコイサン族はアフリカ大陸の海岸沿いに追いやられ、やがて一六五二年に船でやってきたオランダ人にあっさり降伏してしまう。
 もしもアフリカ大陸の海岸沿いに農業に適した土地があったなら、ヨーロッパ勢は軍事的に優位なバントゥー系諸族と対戦する破目になり、容易に征服できなかったはずだ。
 こうしてアフリカは植民地化され、アフリカ人はアメリカの鉱山や綿花プランテーションへ送り込まれ、マラリアに感染しにくい高価な奴隷として扱われた。進化の果てが短命で、しかも奴隷だなんてあんまりだ。それもこれも全部、蚊のせいなのだ。
 蚊は恐竜の絶滅にも一役買っている。もちろんユカタン半島に落ちた隕石が絶滅の直接の原因だけれど、一億三〇〇〇万年前に出現したマラリアに対して免疫を確立することができないまま、六五五〇万年前の隕石落下にいたるまで、ずっと恐竜は病で衰退していた。その証拠に、恐竜の直接の子孫である鳥類は、本人たちはケロリとして暮らしているものの、その血液中に蚊媒介の病気をうようよと宿しており、今もなお蚊媒介ウイルスの主な感染源である。
 つまり蚊のせいで恐竜が絶滅し、そのせいで哺乳類が繁栄し、人類が誕生できたともいえる。恐るべし、蚊!
 蚊は戦争や移民や貿易や探検など、人々の大移動に付き従い、不衛生で湿った場所、生産効率を追求しすぎる農業の行われる場所などに現れて、こちらの敵味方に関係なく殺戮を続ける。これは昨今注目の「環境問題」でもある。人類のエゴには、もれなく蚊がすり寄ってくるのだ。
 蚊に対抗すべく、これまで人類はキニーネ、DDTなど抗マラリア薬や殺虫剤を探し求め開発してきた。しかしそれらは、全人類に行き渡る量ではなかったし、使い過ぎれば効き目が弱まる。また、利益率の高い薬の開発を優先するあまり、アフリカでマラリアに苦しむ人が沢山いても、ヨーロッパではさほど流行していないため、抗マラリア薬の開発は後回しになっている。
 最近の対抗策として、CRISPR(クリスパー)というゲノム編集技術で、病気を媒介する蚊を激減させるか、蚊が病気を媒介できなくさせることを目指す夢のような活動も紹介されている。とはいえ、遺伝子操作の影響は未知である。慎重にすすめて欲しい。
 著者のティモシー・ワインガードは、これまで軍事史と先住民族研究に関する本を書いている。なるほどナポレオンの生物兵器や、アメリカ大陸の入植、独立戦争や南北戦争での現場寄りのエピソードや、スペインに征服されたアステカ族の嘆きの声が重なるところに、必ず蚊が潜んでいることに着目したのだろう。
 有史以来、蚊は常に真っ直ぐに人類を攻撃し続けている。それなのにわれわれ人類は殺し合い、足を引っ張り合い、団結できないまま、生存を賭けた蚊との戦いを続けなければならないのである。
(翻訳者/ライター)

「図書新聞」No.3615・ 2023年11月18日(土)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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