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玉木史惠評 セシリア・ワトソン『セミコロン――かくも控えめであまりにもやっかいな句読点』(萩澤大輝・倉林秀男訳、左右社)

評者◆玉木史惠
ささやかな記号に凝縮された壮大なパワー――セミコロンの深い歴史
セミコロン――かくも控えめであまりにもやっかいな句読点
セシリア・ワトソン 著、萩澤大輝・倉林秀男 訳
左右社
No.3614 ・ 2023年11月11日

■日常的に目にしていても使い方がよくわからず、わからないまま使い続けているものは意外に多いのではないだろうか。複数のメールアドレスを区切っているセミコロンも、そのひとつだろう。日本語には存在しないセミコロンに日本人が無関心なのは不思議ではない。しかし、アメリカ文学を代表する作家のカート・ヴォネガットやジョージ・オーウェルがセミコロンを嫌悪していたという逸話や、セミコロンは不愉快で扱いにくいと思っている英語話者が多いという事実に驚く。どのような経緯でセミコロンが嫌われものになってしまったのか、と著者のセシリア・ワトソンは考えた。そして、その使用法をめぐって博士課程の指導教員と口論したことをきっかけに、セミコロンの深い歴史にのめり込んだ。
 セミコロンは、文芸復興を目指すイタリア人の人文主義者によって、十五世紀末に考案された。「コンマとコロンの中間ほどの休止」(十六ページ)を示す記号であり、規則に従って使われるのではなく、個人の自由な裁量で活用された。十九世紀に入り公教育が拡大すると、言葉づかいの規則をまとめた文法書が次々と出版された。文法は確たる答えがある科学的規則を目指し、セミコロンは「文の区切りを明確化する手段」(四十六ページ)だとされた。十九世紀後半には、セミコロンは「独立する節同士の接続や、コンマによる区切りが入るほど長い項目を列挙する場合に限り」(四十八ページ)用いられると定められた。しかし、多様な使われ方をするセミコロンに人々は当惑し、その混乱は法廷論争にまで持ち込まれることになった。
 セミコロンが使われているために「夜十一時から朝六時までの間における酒類の販売を禁ずる」と理解された条文は「セミコロン法」(五十七ページ)と名付けられ、解釈をめぐる論争は一九〇〇年から一九〇六年まで続いた。コンマかセミコロンかという問題が酒の提供時間をめぐる論争にとどまるなら、笑い話で終わるかもしれない。だが、陪審が出した評決と判決勧告の解釈の結果、ひとりのイタリア系移民の被告が死刑を言い渡されたという事件は笑い事では済まされない。We find the defendant, Salvatore Merra, guilty of murder in the first degree, and the defendant, Salvatore Rannelli, guilty of murder in the first degree and recommend life imprisonment at hard labor.(被告人サルバトーレ・メラを第一級殺人で有罪、及び被告人サルバトーレ・ランネリを第一級殺人で有罪として重労働を伴う終身刑を勧告する)(七十一ページ)において、メラの弁護人は「終身刑を勧告する」部分はメラにも適用される、と主張した。適用されないのなら、We find the defendant, Salvatore Merra, guilty of murder in the first degreeの後ろはコンマではなくセミコロンが使われていたはずだと論じた。しかし、終身刑の勧告はランネリにしか適用しないと判事は決定し、メラに死刑を言い渡したのだ。
 さて、セミコロンを上手く使いこなせるようになるためには、どうすればよいのだろう。著者は、達人が書いた文を「注意深く」(九十ページ)読むことを勧める。セミコロンが使われている理由を探りながら読むのだ。レイモンド・チャンドラーはif節をセミコロンで繋いで文にリズムを作り、怒りの響きがある文を書いている。ハーマン・メルヴィルは、語数約二十一万語の『白鯨』(Moby‐Dick)の中でセミコロンを四千回以上も使い、モービィ・ディックのおぞましさや、語り手イシュメイルの恐怖心を表現している。圧巻はマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの「バーミングハムの獄中からの手紙」だ。whenで始まる節をセミコロンで次々と繋ぎ、公民権運動を起こす正当性を力強く説いている。じれったい思いで変化を待ち望んでいたキング牧師は、味わった苦痛と屈辱を従属節で列挙し、then you will understand why we find difficult to wait(そうであればきっとわかることでしょう、なぜ我々にとって待つことが難しいのかが)という主節に導く(一五二ページ)。達人の文を読むと、セミコロンは言葉による表現を重視するローコンテクストの文化に適していると感じる。不明確な部分を残さないように、複数の節を戦略的に結ぶことができるセミコロンが果たす役割は大きい。
 最後に、セミコロンの使い方を含めた標準書記英語(Standard Written English)について著者は考える。この英語の習得を勧めるのは、その規則から外れた「非標準的」(一五三ページ)な英語の使い手が不利益を被るからだ。だが、世の中の既成事実は、標準書記英語を使い続けるべきだという主張の根拠にはならない。規則を言葉の理解や使用に資する唯一の枠組みと見なす発想は危険だ。規則違反を理由に、相手が伝えようとすることに耳を貸さない行為になる。イタリア系移民の被告サルバトーレ・メラは非標準的な英語を使ったため、訴えを聞き入れられずに電気椅子にかけられてしまったのではないだろうか。規則よりもコミュニケーションを優先するならば、言葉をもっと豊かに学び、教え、使い、愛するようになるはずだ。
 指導教員との口論をきっかけとしてセミコロンの歴史にのめり込んだ著者は、言葉をより豊かに愛するようになった。規則を捉え治し、言葉のもっとも根本的で原始的な意義や目標の方に注意を向けた結果、人間的に変わることができたのだ。言葉を使うひとりひとりが、言葉は本当の意味でのコミュニケーションと他者への寛容さのためにあると気づいて心を通わせることができれば、セミコロンの味わいが深く理解される、優しく慈悲深い社会が実現するかもしれない。
(英語学習アドバイザー/翻訳者)

「図書新聞」No.3614・ 2023年11月11日(土)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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