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韓歴二十歳 第4章(1)

プデチゲの章/マラギの苦悩をぶち抜いたプデチゲの夜◆いつまでも韓国語をうまく話せない。苦しい留学生活にやっと光明が見えた。
コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。
※情報は当時のもの
第3章おまけコラムから続く
第1章(1)から読む

 ◆

4、マラギの苦悩をぶち抜いたプデチゲの夜

 1999年秋は波乱のうちに過ぎ去り、1999年冬が近づいてきた。だんだん韓国生活にも慣れて、少しは落ち着いて暮らせそうであった。

 ただ韓国ソウルの冬はとにかく寒かった。

 韓国に着いたその日が雨天17度で、いきなりおうちに帰りたくもなったりもしたが、そんな記憶もかすんでしまうほど、日々転がり落ちるように寒くなっていくのであった。寄宿舎の庭には温度計がつり下げられており、登校前にそれを見ては、

「11度!?」
「9度!?」
「1度!?」

と律儀にひとつひとつ驚いていった。

 僕はなんとなくソウルを東京と同じくらいの感覚で考えていたが、改めて地図を見てみると新潟あたりと同緯度であった。

「マイナス10度以下にもなるし、下手をしたら漢江(ハンガン)が凍るよ」

 そんな黄さんの言葉に恐れおののき、これはきちんと冬支度をせねば死ぬかもしれないと気持ちを引き締めた。だが、そこで厚手のコートやロングダウンを買うような財力はなかったので、ひとまず身体の内側からあったまれるような料理でも探そうかと、貧なる方向で情熱を燃やすのであった。

 僕が毎朝、ヤンニョム抜きうどんを食べている食堂には、ふたつのゴージャスメニューがあった。

 ひとつがプルコギトルソッパプ(石焼き牛丼)で最高価格の3300ウォン。底にバターを塗った石鍋に、ごはんとちょっと甘めの牛肉炒めを載せ、中央に卵黄を配したものである。石鍋は熱してから提供するので、最後までアツアツのまま食べられるのはもちろん、石焼きビビンバのようなオコゲができるのも嬉しい。ほんのりバター風味のオコゲはなんとも香ばしく、ごはんひと粒でも残すまじと、スプーンで鍋底を削り取るような勢いで、ガシガシとこそげて食べた。

 もうひとつがキムチスンドゥブで、こちらは2番手価格タイの3000ウォン。キムチ入りのスンドゥブチゲ(辛口の豆腐鍋)ということだが、これまた石鍋でボリュームたっぷりに出てくるのが魅力であり、これを食べると真冬であっても全身汗ダク、水もしたたるネズミ男になるほどの熱量があった。

 ちなみにこの店には別途、スンドゥブチゲペッパン(定食)2500ウォンというメニューもあり、普段はこちらを選ぶほうが多かった。だが、サイズが明らかに小さいのと、通常は卵をひとつポトンと落としてくれるはずの料理なのに、どうしたことか白身だけしか入らないとの点において大きな不満があった。

 何度も通ってようやく理解したところによると、黄身は先のプルコギトルソッパプや、石焼きビビンバ3000ウォンのほうに利用され、500ウォン安い定食には余った白身を投入するという、せちがらい役割分担がなされているのであった。

 どのみち他店よりも明らかに安価な学生向け食堂であり、いま思えばそれはそれで理解のできるやり方ではあるが、その当時は黄身ひとつ、わずか500ウォンの格差が天と地ほどでうらめしかった。

 なにしろラーメンひと袋が安くて350ウォン。その500ウォンがあれば寄宿舎でラーメンを作って1食をまかなうことができるので、キムチスンドゥブや、ましてプルコギトルソッパプを頼むのは、

「試験終わりなどの特別な日!」

と僕の中で決まっていた。

 それがゆえに気温が下がって寒くなればなるほど、じりじり焦げるプルコギトルソッパプのオコゲや、マグマのごとく煮え立つキムチスンドゥブが、悶えんばかりに恋しくてたまらないのであった。

 ただ、その骨身に染みる寒さは、決して気温だけの問題ではないようでもあった。

第4章(2)に続く

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