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韓歴二十歳 第3章(1)

ソジュの章/焼酎の一気飲みでフィルムぶち切れ◆仲良くなった韓国人と焼酎を飲む。飲み過ぎて記憶が飛ぶ。毎日そんな失敗だらけ。
コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。
※情報は当時のもの
第2章(7)から続く
第1章(1)から読む

 ◆

3、焼酎の一気飲みでフィルムぶち切れ

 韓国にやってきて1ヶ月を過ぎた頃から、僕の留学生活に日本語同好会の存在が大きく浮上してきた。

 日本語同好会というのは僕が韓国にやってきて3日目に、寄宿舎の庭で焼肉をしていたあの団体のことである。彼らはインターネット上の掲示板を駆使して連絡を取り合い、また会員を募集したり、遊びに行く約束をしたりしていた。

 1999年7月に発足したこの会は、当初会員も少なく、実力もばらばらだったが、1年を経過する頃には総勢70人を超える大所帯となり、実力別にクラス編成を行ったり、会を円滑に運営するための組織化に励んだりするに至った。やがて月に1回集まって飲み会をするだけでも店探しで大変、という痛しかゆしの状況に落ち込んでいくのだが、それはまだずいぶん先の話である。

 僕とてっちゃんは日本語同好会にあって、あるときはパーフェクトな日本語を話すネイティブスピーカーという立場で偉そうに日本語を教え、またあるときは拙い韓国語しか話せない外国人として韓国語を教わった。週に1度日本語カフェに集まっては2時間ほど勉強し、その後打ち上げと称した宴会に突入する。

 学習同好会とはいえ勉強ばかり熱心にやるような集まりではなく、むしろ大学のサークルに近い雰囲気だった。日本語を勉強するという共通の目的こそあれ、週末になればこぞって映画を見に行ったり、遊園地に出かけたり、インラインスケートを楽しむことに、むしろ情熱を傾けていく人たちが多かった。

 1週間に何度も飲み会があり、ネット上の掲示板には常に、今日はどこどこで飲み会をやるぞといった派手な文句が踊っていた。韓国では突発的な飲み会、もしくはイベントのことを俗にポンゲ(稲妻)と呼ぶ。掲示板上に誰かがポンゲを落としてしまったら、あとは問答無用で出かけていかねばならないのだ。

 ポンゲ行為に代表されるように、突発的になにかを思いついて行動に移してしまう人が多く、韓国に来たばかりで右も左もわからない僕たちは、訳がわからないまま旅行に連れて行かれるようなことも多かった。

 なかなか信じてもらえることではないが、前日に電話がかかってきて、どこに行くのかもはっきり知らされないまま集合場所に出かけていくということもしばしばあった。1泊2日で力の限り遊んで帰ってきたにも関わらず、それでも結局どこに行って来たのか、よくわかっていないということすらあった。

 飲みに行くぞと言われれば飲みに行き、自転車に乗ろうと誘われれば、それが何を目的とするのかわからないままふらふら出かけて自転車に乗り、山登りに行くと聞いて登山靴を履いて出向けば、そこはなぜか遊園地だったりした。

 僕らは世の中が不思議で覆われている3歳児のような感覚の中で暮らしていた。

 しかしその日本語同好会に出会えたことは、僕らにとって本当に幸せなことだった。出会う韓国人の数、韓国語を使うチャンス、韓国文化に接する頻度、他の留学生に比べ群を抜いていただろうと僕は勝手に確信している。

 語学堂のカリキュラムが非常によくできており、学生のために大きな役割を担っているのは事実であるが、それだけでは不足だというのもまた、先生たちの認める真実である。学校で学んだことは実践で使わなければ身につかない。文法や単語は実際に韓国人を相手に使ってみて初めてモノになるのだ。

 その意味で僕らには実験相手がいくらでもいたし、様々なタイプの韓国語に接することができた。人によって柔らかい物言いをする人、文法的に多彩な表現を用いる人、とにかく笑える面白い韓国語を駆使する人。そういう人たちと出会うことによって僕らの韓国語能力は知らず知らずのうちに磨かれていった。

 飲み会に行くたび、旅行に行くたび、それはレジャーでありながら韓国語集中合宿でもあった。同好会には日本語ペラペラの人もたくさんいるが、ひらがなカタカナをこないだやっと卒業というレベルの人もいる。勉強の時間が終われば韓国語だけで会話が行われ、

 僕らがコミュニケーションを取るには、拙なかろうが韓国語で話すよりほかなかった。ただ便利だったのは日本語のできる人が常にそばにいるため、会話に詰まったらすぐに質問ができるということであった。しゃべる、聞く、わからなかったら質問する。これほどよい学習環境は存在しない。

第3章(2)に続く

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