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韓歴二十歳 第7章(1)

ポクタンジュの章/MTの洗礼に弾け飛んだ爆弾酒の夜◆飲んだらたいへんなことになるという爆弾酒を飲んでたいへんなことになる。
コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。
※情報は当時のもの
第6章おまけコラムから続く
第1章(1)から読む

 ◆

7、MTの洗礼に弾け飛んだ爆弾酒の夜

 春になって僕は語学堂の4級に上がった。毎日毎日、朝から晩まで、韓国語のシャワーを浴びるのに必死だったが、振り返ってみるともう半年が過ぎていた。

 留学生としての暮らしにはだいぶ慣れ、語学堂の授業で困ることはほぼなくなった。授業の形式を飲み込めたのと、先生が説明に用いる表現や、理解が及ばなかったときの質問方法など、授業の場で必要となるスキルを獲得できたのが大きい。

 気付いてみると、ひとつの場で要点となる単語はそう多くなかった。同じ単語、同じ言い回しが、授業ごとに繰り返される。それは級が上がっても、先生が変わっても、異なる文法事項の説明でも同じだった。

 それは場慣れという言葉でも説明できるが、僕は個人的に「場の獲得」ととらえていた。その場の必要単語を獲得できれば、そのシチュエーションでは自信を持てた。

 例えば、あるとき僕は道で財布を拾った。この場合、次なる正しい行動は速やかに警察に届けることだが、僕はその足で向かうことはできず、しばし悩んで寄宿舎に戻った。辞書を引くためであった。

「財布を拾いました」

と言うためには、自分の中になかった「拾う」という単語を覚えなければならない。その単語が「チュプタ(줍다)」であることを確認し、

「チガブル チュウォッスムニダ(지갑을 주웠습니다、財布を拾いました)」

という一文を頭に叩き込む。

 頭の中で繰り返しながら最寄りの交番に向かい、警察官に向かっておもむろに放つ。外国人と気付いて親切に対応してくれたのは幸いだった。

 ミッションとしては大成功。

 拾ったものを届けるという「場の獲得」にもなり、今でも「拾う」を使うときは警察官とのやり取りが頭をよぎる。

 なお、落とし主が梨花女子大学に通う学生で、ぜひお礼をと連絡があり、カフェでご馳走になる望外かつムフフな状況に展開したのはあくまでも余談である。

 この頃から自分なりの勉強法を確立できたのも大きかった。

 まず、授業中にノートを取るのをやめにした。教科書とノートの両方を並べて行ったり来たりするのが面倒になり、教科書に直接赤字で書き込んでゆくスタイルになった。先生が板書したことも、口頭で説明したことも、すべて教科書に書いた。

 真っ白いページを赤く染めるのが楽しかったし、試験前に教科書を開くと、そこに授業内容がすべて書かれているのは復習しやすかった。

 ただ、ノートをまるで使わなかったわけではなく、むしろノートは授業後に教科書を見返しながら丁寧に美しくまとめた。必要な文法事項を抜粋し、例文を書き添え、

 教科書とは別に文法書を見ながら自分なりに理解したポイントも加える。途中から調子に乗って自分用の練習問題を作ったり、目次をつけたりもしたので、それはさながらオリジナルの参考書であった。

 のちに寄宿舎の後輩がそれをコピーし、クラスメートにも配ったことから、一時期の語学堂では試験対策用の必須教材として広まった。その後、数年間は「八田ノート」としてコピーに次ぐコピーで受け継がれたそうなので、自分で言うのもなんだが、これはもうある種の伝説ということでよろしかろう。

 とはいえ、語学堂を1歩外に出ると明らかにまだ未熟だった。

 獲得すべき場は無限にある。ものもらいができて病院に行く。携帯電話の契約をする。置き引きに遭って号泣する友人を慰める。未知のシチュエーションが際限なく襲ってきた。

 留学生活とは暮らしそのものがスパルタ式の勉強である。いま思えば、本当に楽しく幸せな時間であった。

第7章(2)に続く

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