韓歴二十歳 第6章(1)
ポシンタンの章/ポシンタンを食べに行って犬に吠えられた話◆韓国にいるなら1度はアレを食べておくべきではないかという体験記。
コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。
※情報は当時のもの
<第5章おまけコラムから続く>
<第1章(1)から読む>
◆
6、ポシンタンを食べに行って犬に吠えられた話
僕の留学生活は4ヶ月目に入った。
自分なりに頑張った成果か、あるいは語学堂のカリキュラムが優秀なのか。韓国語能力にようやく変化が生まれてきた。
それまでは会話をするにしても、ごくごく簡単なやり取りに終始していたが、少しずつ自分の言いたいことを並べて表現できるようになっていた。ひとつを聞いてひとつを返す稚拙なキャッチボールから、雨あられと飛んでくる会話を、精度はともかく受け止めては返す千本ノックのようなやり取りになった。
また、えらく時間はかかるものの新聞を読めるようになり、テレビ番組もドラマやシチュエーションコメディなら楽しんで見られるようになった。少しずつではあったが、着実に実力が伸びている実感があり、昨日と今日の自分が違って感じられた。
留学時代を通じていちばんの成長期だったように思う。
初めて韓国語で夢を見たのもこの頃だったが、これは現実と同じく夢の中でもうまくしゃべれずオタオタしていた。夢の中ならペラペラでもいいじゃないか、と目覚めるなり憤慨したのをよく覚えている。
日常生活にも慣れて、暮らしそのものにさほどのストレスを感じなくなったのも大きい。韓国語の習得と韓国文化への適応は、ほぼ同じ歩みで進んでいくようだった。
語学堂での授業にもいくつかの変化があった。
3級に上がると、みな韓国語でそれなりの意志疎通が可能になる。わざわざ同じ言語圏ごとにクラスを組む必要がなくなり、出身地域の区別なしにレベルで分けられるようになった。
僕のクラスは半数は日本から来た学生だったが、他のメンバーはアメリカから来た牧師や、ロシアから来た女子大生、中国から来た大学教授といった感じで、年齢も肩書きもバラバラな構成であった。
語学堂の先生が、
「この仕事のいいところはありとあらゆる価値観に出合えることだ」
と言っていたが、それは学生の立場としても同じであった。
これほどバラエティに富んだメンバーとともに、毎日顔を合わせながら、同じ目的を持って活動する機会はめったにない。しかも全員が全員、同じレベルの韓国語しか話せないため、異なる文化圏から来ていてもなんだか妙に話が合ったりするのが面白かった。
そんな新しいクラスでひとり妙なヤツと出会った。
名前をヒョヌといい、新学期が始まって最初の授業から、彼はいきなり遅刻してやってきた。ドアを開けてのそーっと入ってきたと思ったら、すいませんのひと言もないまま空いた席に座り、帽子をかぶったまま授業を受け始めた。
日本的な感覚で言えば、
「授業中は帽子を取れいっ!」
もしくは、
「部屋の中では帽子を取れいっ!」
ということになるが、語学堂においてその手の常識はほとんど重要視されない。特に西欧圏の学生などは、僕から見るとずいぶんフリーダムに授業を受けていて、突然リンゴをかじり出したりもしていた。
先生たちも文化的な違いには慣れっこなので、よほど迷惑になる行為以外は特に何も言わない。
ヒョヌは授業中の発言などからみると、韓国語はかなり上手なようだったが、休み時間に僕らが話しているときも輪には入ってこなかった。なので、しばらく彼が何者でどこの国から来たのかは謎であった。
同じクラスなのだから気軽に聞けばよいのだが、当初の彼にはそれがはばかられる独特の雰囲気があった。
そのため授業中に先生から出身地を問われ、
「日本の岐阜県というところです」
と答えたときはおおいに驚いた。風貌や態度から、てっきり欧米圏の出身だとばかり思っていたからだ。
加えて、日本から来た学生であれば同じクラスでなくとも、苦手科目だけを集中的に学ぶ選択班というのがあって、たいていは顔見知りになる。だが、ヒョヌの顔はまるで見覚えがなく、ならば3級から入ってきたのかと思いきや、1級からずっといたという。
どうにも不思議な存在であった。
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