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オオカミの里 東吉野村滞在記 ⑥ 〜 天誅組の変 上巻 〜

東吉野村にはニホンオオカミが最後に捕獲された場所として観光地化しようとしたが、インパクトの弱さというか...渋谷駅にある、ハチ公のような銅像が山間部の何もない県道沿いにポツンとある。

1905年に捕獲され、その剥製はロンドンの大英博物館に現存するらしい。


日本最後のオオカミが捕獲された日から42年時代はさかのぼる。幕末に天誅組の変という事件が起こる。

その幕末の志士が討ち取られた場所として、この天誅組を村は観光の柱にしようとしているが、インパクトのほどは如何なものか。

1863年なので大政奉還の5年前の話である。幕末の歴史が好きな自分でも天誅組のことは、ほとんど知らなかった。

維新先駆けの志士と呼ばれる天誅組について少しだけ触れてみたい。

京都の長州藩邸にいた吉村寅太郎ら数十人が同志を募り討幕の兵をあげた。

そして現在の五條市にある五條代官所に打ち入り、代官の首を斬った。39人の若者が、

「江戸幕府を倒すぞ!」

とテロを起こしたワケである。

奈良県五條市の代官所は当時、15人しかおらず、しかもその夜は宴会をしていたそうだ。

錯覚革命という言葉があるとすれば、この天誅組の変こそまさにそうだと思う。


京都では尊王攘夷が盛り上がり始めていたが、日本中がまだ何事もなく暮らしているときに、大和の田舎で、「五條新政府」まで建てて騒いでいた。

五條代官所を襲撃した天誅組は、吉野の山中でキコリをする十津川郷士に声をかけ1000人を超す大部隊になった。

「次は高取城を落としてやる」

勢いに乗る天誅組に比べて、高取藩兵は150人。それは皆震え上がっていたと思う。

この譜代大名の高取藩植村家はブリキトースと呼ばれる大砲を持っていた。

それは大坂夏の陣で大阪城攻略のため作られた物で、淀様と秀頼公を震え上がらせた例の大砲である。
1615年、大阪夏の陣で使った6門の巨砲全てを徳川家康は高取藩にさずけた。それから約250年、一度も使われていなかったらしい。


各砲ごとに大砲方という役があり200年間もの長きに渡り、俸禄をもらい、子を生み、受け継いできた。

たった一門の砲を撫でさするだけで、6つの家は、禄をもらい子々孫々生きてきた。

その6つの家は互いに牽制し合い、他家の大砲には触れないという掟があったそうだ。

どの大砲方の家も、200年のあいだ、口伝で火薬の調整法を伝えている。ただ一つの家を除いては、火をつけても爆発せず、実際は何の役にもたたなかった。

しかし、笠塚新次郎という緒方塾で学んだ者だけが、新知識の火薬を使い、轟然と砲口から火をふき、撃ちまくった。

笠塚家のブリキトースの大砲で天誅組は壊滅してしまう。

歴史小説みたいになってしまい、纏まりがない感じなので、これにて。


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