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オオカミの里 東吉野村滞在記 ⑦ 〜 天誅組の変 下巻 〜

東吉野村に引越して1年が経とうとしている。
前回は歴史小説みたいになってしまい、不評かと思いきや、以外と好評だったので、今回も天誅組の第2弾を書きたいと思う。

ここ東吉野村には、天誅組が最後に殺された場所やその状況は多々見かけるが、天誅組の彼らがどのように戦い、どんな思想を持っていたのかというところが、あまり知られていないと思っている。

偉そうな文体に見えて、大変恐縮なのだが、僕の書いている情報元は、ほとんどが司馬遼太郎の「おお、大砲」という短編小説からである。偏った見解と思われたら、ごめんなさい。

前回は、高取城にて天誅組が壊滅状態になったところまで書いた。その壊走した天誅組の損害は後から調べると、なんと十津川郷士1人のみで、しかも崩れたった味方の足に踏まれて死んだものであった。

そもそも天誅組は公卿の子(中山忠光19歳)に支配された浪人達と十津川郷士というキコリの集団である。

高取城攻撃は戦史にまれな、愚かな攻城法をとることになった。

高取城へ登る細い道を行列で攻めていく。行列で攻めるという事は、後ろの者が戦闘できない。

極端に言えば1000人もの縦隊の先頭数人だけが城の敵と戦っているようなものであった。後ろの者はただ行列を作って見ているだけである。

江戸幕府250年もの間、誰も戦争を経験していないので仕方のないことかもしれない。城を先頭に1,000人の行列が並んでいる状況で、あのブリキトースの巨砲が火を噴いた。

四分五裂した天誅組の敗兵は、その日没まで南大和のあらゆる村道で見られたというから、よほど手ひどい潰走だったらしい。

十津川郷士は天誅組を天朝様の軍だと思っていた。しかし、数日前に政変があり、ただの暴徒であると知らされ、ほとんどの者が憤慨して帰ることになる。

そして奥大和に逃げ込んだ天誅組の浪人隊士は戦死、自害もしくは刑死の運命をたどることになる。このくだりは、東吉野村ではよく知られている。

さて天誅組が壊滅したこの東吉野村からアントニオ猪木の言葉を送りたい。

「道、この道はどうなるものか、行けばわかるさ、迷わず行けよ」


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