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パンチの不祥事[中学時代 2000文字]

人生の大きな転機となった、中学校の部活について書こうと思う。

中学に入り僕はサッカー部にするか、はたまた陸上部に入るかで悩んでいた。
少年サッカーの友達は、ほぼ全員がサッカー部へ入部した。

1992年。Jリーグ元年のこの春は、サッカー経験のない子や、ボールを触ったことがない者までが、サッカー部へ入るという人気ぶりであった。

さらにサッカー部には、仲のいい先輩がたくさんいた。それに比べて、陸上部は知らない3年生が4人のみ、2年生はゼロという弱小部である。

結局は陸上部に決めたが、最初の頃は陸上部員であるのを隠したりもした。ある日の放課後、姉貴の友達で剣道部の女子が

「拓ちゃん、何部に入ったん?」

と訊ねてきた。僕は顔を真っ赤にして

「サ、サ、サッカー部です」

と嘘をついて走り去ったことが、一度だけある。

人には得手不得手があり、僕にとってサッカーは後者であろう。少年サッカーを4年程やったが、これといった活躍はなかった。

一方で長い距離を走ることは得意であった。陸上部に入部して、1ヶ月もしないうちに長距離走を専門とする2人の先輩を練習で抜かしていた。

入部して3ヶ月で県大会に出場。そして1年1500m走で、いきなり3位になった。中学校の陸上競技では、1年、2年、3年生の体力差があるので、短距離は100m走、長距離は1500m走の学年別種目がある。

先輩の3年生が7月の大会で引退すると、陸上部は残された僕ら1年の5人だけになった。

僕は入部してたったの4ヶ月でキャプテンに選ばれてしまった。ちなみに、サッカー部は80人を超える入部があり、全校生徒800人程の学校にしては、人気の高さがうかがえる。

しかし、苛烈なしごきというか、壮絶なボールとポジションの奪い合いによって、その夏には半数以上が、サッカー部を去ることになる。


部活というのは顧問の先生、または監督によってその部の性格なるものが出来てくるように思う。

僕が2年になり、陸上部の顧問が代わった。彼は完全なる放任主義でキャプテンの僕に好きなようにやらせてくれた。そうして後輩が10人も入ってきた。まだ2年なのにキャプテンの僕は

「部費として1人1000円を徴収する」

と言い出して、みんなからお金をあつめた。

「筋肉をつけるぞ」

と少年ジャンプの裏表紙に載っているベンチプレスを購入して部室に置いた。さらに、

「筋トレの効果を上げよう」

と集めたお金でプロテインを買ってきた。そして給食の余った牛乳を勝手にパクり、それを混ぜて飲んだりした。

しかし自由な練習には妥協というものがついてまわる。県の大会でたまに3位になることはあっても、それ以上の成績がなかなか取れなかった。

そして最終学年の3年になった。僕にとって2度目になる部活紹介はコントで笑いをとる。

幼なじみのチャチャンコという、童顔で短髪の子がいた。その彼の顔を墨汁で真っ黒に塗り、カールルイスにしたてる。

さらに副キャプテンの元木君と即席の競走をさせて

「あなたもカールルイスに勝ちたかったら、陸上部へどうぞ!」

と紹介して、会場を沸かせた。その効果もあったのか、新入生がなんと30人も入ってきた。

当初5人で始まった陸上部は総勢50人を超える大所帯になった。僕が卒業後にこの陸上部は総体で総合優勝をはたすことになる。


パンチパーマがトレードマークで、みんなからパンチと呼ばれる先生がいた。

徳島駅伝の監督で僕は中学1年の頃に出合ったのだが、隣の中学校で不祥事を起こし、その当時は役場の中にある教育委員会にいた。

僕はそのパンチ先生を訪ねて

「県総体の3000m走で優勝したいので教えてほしい」

と頼み込んだ。彼はそれを受け入れてくれて、放課後になるとグランドに立ちストップウォッチを押してくれた。町で唯一陸上競技の専門知識を持つ彼の教え方は上手かった。

6月の県大会で2位。そして7月の県総体ではついに優勝した。8月の四国総体は3位だった。

僕の自慢話はここまで。ここからはパンチの不祥事について書こうと思う。

長髪化問題というのが、当時この辺りの中学生にとって、トレンドになっていた。

男子生徒は全員丸坊主という校則があった。しかし、隣町の中学校はこれを廃止し髪を自由に伸ばすことを選択したのであった。

田舎の中学生あるあるだが、丸坊主からいきなり髪型を自由にどうぞ、と言われても時として迷ってしまう。

長髪化してから2ヶ月が経った頃、一人のやんちゃな生徒が、あろうことかパンチパーマをかけて登校して来た。

当時の体育主任であり、生活指導も任されていたパンチは、中学2年にして自分と同じ髪型をした、その生徒に説教をする。

「お前には、まだ早い、早すぎる・・・」

ごもっともな意見だと思う。ついでにゲンコツを1発くらわした。それが、やんちゃな生徒は気に入らなかった。

パンチが命の次に大事にしている、愛車のベンツになんと10円玉でキズを入れたのだ。

これに激怒したパンチは、体育教官室にその生徒を閉じ込める。そして放課後、バリカンで彼のパンチパーマを丸坊主にしてやった。

この一連の出来事をその生徒の親か親戚が徳島新聞にタレ込み、後日、大きな記事になってしまった。それが原因でパンチは教育委員会に更迭されることになる。

ちなみに僕はその事件の半年後に教育委員会にいる彼を訪ねるのだが、そこで出会ったパンチ先生の髪型は丸坊主であった。 

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