「こんな音にしたい」という意志をどうやって持つか?(1)
グレタ・トゥンベリ(Greta Thunberg, 2003-)とビリー・アイリッシュ(Billie Eilish, 2001-)は怒れる十代(そんな言葉があるとして)を代表する。「なんて世界に生み落としてくれたんだ」―この二人がそう言ったわけではないけれど、多くの若い人がほんとうにそう感じているのだろう。
I was diagnosed with Asperger's syndrome, OCD and selective mutism. That basically means I only speak when I think it's necessary. Now is one of those moments. (トゥンベリ、2018年11月ストックホルムでのTEDxTalkより)
別のインタビューで「アスペルガーは私のスーパーパワー」とトゥンベリは言っていた。アイリッシュは、ファンが彼女のチックの現れた場面だけを集めた動画を公開したとき、トゥレット症候群であることをSNSで公表した。
彼女らが内に抱えるものと外に表現するものとを、単純に関連付けることはできない。けれど、内にも外にも違和感を抱えること、その違和感を世界に対して表現できること―そのことに、私も含めて、多くの人々が共感している。
ポップカルチャーとは、いろいろなイデオロギーが競い合う場である
アイリッシュの音楽は、多くの人に親しまれやすいものである一方で非常な緊張を孕んでいる。ただしその緊張はメロディとコードの扱い方の中で作られるものではないーつまりメロディとコードを書きおろして読んでみてもその緊張は伝わらない。むしろ、発声、発語、言葉、音色、テンポ(『Bad Guy』の減速するコーダ)、リズム、ダイナミクス、ノイズ、ミキシング、映像、そういったものが緊張を作っている。
もうひとつ、その音楽に緊張をもたらすものとして、音以外の、文化的なものがある。つくる側と聴く側が共有する文化的なバックグラウンドは重要だ。「ある人がある音楽を聴いたときにどう感じるか」ということは、つくる側の『楽音』の操作によってより、それ以外の要素によって左右されることがむしろ大きいと言える。おそらく彼女をフォローするティーンエージャーたちは、彼女の成長を通して新しい文化、新しい物語の誕生に立ち会うというスリルを味わってきたのだと思う。
アイリッシュの音楽が、喧伝されているように、何か自然発生的にティーンエージャーたちによって共有されてきて今日がある、というふうには私は思っていない。周りの大人たちも用意周到にやってきたのだと思う。かと言って、マーケティングをする人たちが意のままにアイリッシュと兄のフィネス(Finneas O'Connell, 1997-)とティーンエージャーたちを操っているかのような陰謀論にも与しない(トゥンベリについても似たことが言える)。
「作曲について理論化したり教えたりすることができるのは、結局『楽音』の取り扱い方に関することだけである」「作曲家は音のクラフトで人々を感心させるのが本来の仕事であって、他のことを考える必要はない」という考え方は、それなりに理解できないこともない。潔く謙虚な立場だとも言える。けれども、G7からCという進行を聴いて、「ああ、解決したな」と感じるには、そう感じる一群の人々の中で育てられなければいけない。人の感性は文化によって作られる。味覚も同じである。そして文化というのはさまざまなイデオロギーが競い合う場であり、誰かがオズみたいに操作できるものでもないだろう。そのせめぎ合いが最終的にはポップスにも緊張を生む。ポップカルチャーの面白さはそこにある。
B to B(ベッドルームからベッドルームへ)
古くはボサノヴァから、今はビリー・アイリッシュまで、耳元でささやくかのように聴こえる声には需要がある。インターネットはミュージシャンのベッドルームとリスナーのベッドルームをつなぐ。あるいは直接つながっているかのような錯覚をリスナーに与える。
声というものはそれ自体にノイズとテンションを含んでいて、今のテクノロジーはそれを拡大してリスナーに届ける。今のヴォーカリストの多くが地声とファルセットとを自在に行き来できるようなフレキシブルさを得ようと努力しているという気がする。いっぽうでオートチューンがやたら流行り出して10年以上経つ。この二つのことはひとつのコインの表裏なのだろうと思う。オートチューンが流行る少し前に、よく似た効果を出すヴォコーダーを使ったイモジェン・ヒープ(Imogen Heap, 1977-)の『Hide and Seek』が売れたことがあったけれど―これはこれで古い人にはローリー・アンダーソン(Laurie Anderson, 1947-)を思い出させるものだったけれど―、文字通り声はかくれんぼをしているのだ。
若い人と言えば、フランク・オーシャン(Frank Ocean, 1987-)の『Blonde』というアルバムは、まるでSoundcloudで私がよく出会うベッドルーム・ノイズミュージシャンたちのような音だった。
Soundcloudを利用するようになってもう10年ほどになる。もともとパソコンの上で、適当に集めた音を徒然に加工しては、誰か聴いてくれるかな?という感じでアップロードすることに使っていた。そういうコミュニケーションの仕方がかなりメインストリームになっているのかもしれない。
そんなだから、ここのところ、ずっと昔に学んでいたことをおさらいしてみたけれど、いっぽうでは、こういう『楽音』のなかでの協和と不協和、緊張と弛緩にあくせくするというのは今の時代にirrelevantなのかもしれない、と思ってもいた。自分の耳を満足させることだけが目的ならそれでもいいのだけど。
テンションをテンションたらしめているものは文脈である
『楽音』の範囲内の話に戻る。そもそもテンションというのは相対的なものだ。いわゆる不協和音や不協和音程が緊張をもたらすのではなく、協和音や協和音程でも緊張をもたらし、聴く人にその解決を期待させることができる。エルンスト・トッホは著書『The Shaping Forces in Music』のハーモニー論の章で下のような例を挙げる。
4小節目最初のCメジャーはDフラット7に解決される。協和音が緊張をもたらす例だ。トッホは協和・不協和という仕分けをやめることを提案している。
ジャズ理論をやる人はテンションノートという言葉を使う。けれどこれは実際には緊張をもたらしているのではなく、スムーズさを醸し出すために使われている。60年代のボサ・ノヴァ、70年代のソフトロック(あるいはAOR)やディスコ、ファンク、ブラック・コンテンポラリーなどがそういったテンションノートの使い方をする(下の例は今適当に思いついたものを書いたもの)。
日本の80年代の「フュージョン」がスーパーマーケットのBGMに使われるのもよくわかる。庵野秀明は『シン・ゴジラ』で最初のゴジラの来襲のあと、この「日本のフュージョン」風の音楽を使ったが、映画の文脈の中ではアイロニカルに響いた(私の記憶に間違いがなければ)。スーパーマーケットの音楽というと、馬鹿にしているみたいだけど、そんなことはない。自分のつくった音楽が30年以上たっても聴かれているということを想像してみてほしい。私ならうれしいと思うだろう。つくったことはないけれど。世に出る音楽のほとんどは一冬を越せない。
これは『楽音』の範囲の外、たとえばノイズなどの音色についてもそう言える。ディストーションの効いたギターもミキシングやアレンジや配信の仕方によってスムーズなものになる。ときにミュージシャンが鳴らす耳に痛いような音を、その音色の特徴を残しミュージシャンのエゴを満足させながらながら聴きやすいものに加工するサウンドエンジニア兼プロデューサーというのはたくさんいるのではないかな?
サミュエル・アンドレイエフのYouTubeチャンネル
カナダ出身で、現在フランスのストラスブルグで教鞭をとる作曲家、サミュエル・アンドレイエフ(Samuel Andreyev)は自身のYouTubeチャンネルで楽曲分析をしたり作曲にまつわる話をしたりしている。またいろいろな作曲家や演奏家にインタビューもしている。楽器の特徴を生かした作曲をする。
楽曲分析の対象にはシェーンベルク、ウェーベルン、ブーレーズ、シュトックハウゼン、ヴァレーズ、ファーニホー、クルターク、リゲティなどの作曲家たちの作品が含まれる。そのいっぽうでロックにも興味があるらしく、キャプテン・ビーフハート、ジャンデク、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ピンクフロイトなども取り上げている。
ジャンデク(Jandek)なんて、知る人ぞ知るという感じだけど、でたらめにチューニングしたギターを開放弦のままかき鳴らしながら、何となくブルースっぽい節回しで詩らしきものを歌う、どこにクラフトがあるのか、という音楽だけど、こういうのにアカデミックな人が興味を示すというのは、私としては理解できる。次回はこの話から。
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