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雪解けて村一ぱいの子ども哉(小林一茶)

世に「冬の時代」というレトリックがある。

大逆事件の後、明治末から大正初を「社会主義運動冬の時代」と呼ぶことを、本校生徒で知らない者はいない。
おニャン子クラブ解散後、1980年代末から90年代前半を「アイドル冬の時代」と呼ぶことを、本校生徒で知る者はいない。

過去、メキシコ五輪銅メダル獲得後の日本サッカー低迷期も「冬の時代」と呼ばれたし、今、米研究者のFilip Piekniewski氏は、世間のAI言及バブルの様相を懸念して、「AI冬の時代」がやってくると主張する。

このように、「季節」は歴史を語る上で実に便利な道具である。
それにもまして、「季節の移ろい」は歴史のダイナミズムを語るとき、さらに優れた効果を発揮する。
例えば、「雪解け」という「季節の移ろい」が、世界の歴史において一時的であったにせよ「東西冷戦緩和」の代名詞としての地位を確として築いたように。

かつて本校にスターリンがいたわけではない。また、優れた作品が発表されてきたであろうこれまでの文化祭を指して、低迷期と嘲弄するつもりも、もちろんない。

しかし、1・2年生のみによる2月開催の文化祭から、3年生を含む全学年による9月開催の文化祭へ移行した、平成28年度の大転換を「雪解け」と呼ばずして何と呼ぼうか。
いや、少なくとも寒いときから暑いときに移行したのだから、なんとなく「雪解け」っぽい。

ただし、「雪解け」は春の訪れを予感させるものではあるが、「春」そのものではない。
君たちの先輩が実現してくれた「雪解け」を、今度はボッティチェリの『春』よろしく、麗らかで豊かな光に満ちたあの百花繚乱の「春」にする。そうした「春」の到来を実現することこそが、君たちの使命ではないだろうか。

数年後、「雪解け」すら、「春」の到来すら知ることのないウブな本校生徒、今の君たちが味わった苦労や困難をまったく知らないイノセントな生徒であふれる文化祭を創っていこうではないか。

心配するには及ばない。次の世代は次の世代で、本校の新たな歴史を創ってくれるだろう。「アイドル冬の時代」を知らない、今の君たちのように・・・。

「文化祭プログラム」巻頭言(2018/9/8)より

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