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世界を見る目

社会人1年目でオートバイのハーレー専門誌の編集部に配属されたとき、わたしは原付とバイクの違いすらよくわかっていなかった。すぐ母に報告したら特段驚かれなかったので拍子抜けしたけれど、その母から話を聞いた父から電話があり「ハーレクイン文庫を作ると聞いたよ。恋愛小説とは意外やな。でもおもしろいかもな」といわれたとき、そうだよね、と思った。勘違いもするだろう。わたしもまだ、現実のことだと受け止めきれていないのだから。

入社面接ではオートバイに興味があるかと聞かれ、国井律子さんの『アタシはバイクで旅に出る』というエッセイを読んだことがあったから、「行きたい場所へ思うままに出かけられるのはおもしろそう」といったことを答えた。でも関心はそれ以上でもそれ以下でもなかったから、辞令が下りたあと、安易に回答したことを悔いた。

とはいえ新入社員としてのわたしの価値は、オートバイに興味がある、ということだけなのか。それなら、好きになれるよう努力してみよう。そう思い立ち、中型自動二輪の免許をとることから始めようと、上司の許可をもらって仕事の合間に教習所へ通った。

教習所での講習は、予想を超えてハードだった。背が低くて足が地面につかないから、停車時はシート上でお尻をずらして片足を伸ばしバランスをとるのだけれど、常に緊張がつきまとう。転ぶと体がアスファルトに打ち付けられてすごく痛い。けれど慎重に走ると、教官から遅い!と檄が飛ぶ。ステップが進むにつれてできることは増えていくけれど、それ以上にできないことが頭を占め、通うのが苦痛になっていた。

ある日の講習に、わたしは買ったばかりのカットソーを着ていった。教習所では、長袖長ズボン着用がマスト。でもその夜、友達が誘ってくれた飲み会があった。お酒を飲んでその場限りのおしゃべりをして笑って、鬱屈とした気持ちから一瞬でも逃れたかった。だからできる限りきれいめな服装を選んだ。

そのカットソーでバイクにまたがると、袖口が上がって腕時計との間の肌が露出した。1時間の講習のあいだに、その部分がしっかりと焼けて赤くなった。ヒリヒリと痛む手首を見ていたら、視界が滲んだ。周りの友人は輝かしい社会人生活を始めているのに、わたしはいったい何をしているのだろう。

講習が終わってもすぐに会社に戻りたくなくて、すぐ近くの河川敷まで歩き、大きな石に腰をかけた。日差しが当たっていたところがほんのり温くて、体を横にして頰をくっつけると、全身にあたたかな流れが巡った気がした。大きく息を吸って吐くと、わたしの悲しみや焦りを石が吸収してくれているようだった。

バイクを好きになることも、そのために免許をとることも、自分で決めたこと。
それなのに体力も気力も教習所に注いでいる今は、うまくいかないこと続きで想像以上に辛い。
誰のせいでもなくて、愚痴をいうこともできないから、この思いは自分のなかで収めることしかできなくて、悲しくて寂しい。
スッキリさせられる見通しも、立ちそうにない。

でもその先におもしろい景色が待っているような気がする。
もうすこしやり過ごしてみよう。

そう思っていっぱい空気を吸い込んだら、体が疲れていることに気づいた。飲み会に行くのは、友達に謝って諦めよう。近くの和菓子屋さんで甘いものでも買って、何事もなかったかのようにまたデスクに向かおう。

ポツポツと雨が降り出したから、駆け足で会社に戻った。お手洗いで鏡を見たら、口元にしっかりと大福の白い粉がついていて、心の乱れを隠しきれていない自分に苦笑いした。

しばらくぶりに、小説『花のベッドでひるねして』(よしもとばなな)を読み返していたら、今となっては話のネタでしかないけれど、当時はわたしのすべてだった、そんなできごとを思い出した。

小説の主人公・幹は、海辺でわかめにくるまっているところを拾われ、血のつながらない家族に育てられた。赤ちゃんだった自分のことを誰かがいらないと決めたという事実が頭をよぎると、目の前が暗くなるような感覚になることもあった。でもそんなことをひっくるめても、人生はすばらしい夢のようだと思っていた。きれいごとではない人生の重みを感じたり、疲れが出てしまうときには、

そんな弱ったときはやることだけとにかくやって、あとは家族に頼んで、のんびり寝てしまえばいい。だれのせいにもしないで、ひたすら天に身をまかせて、疲れを地面に吸い取ってもらえばいい。

と考えた。

でもたいていの人たちは自分たちで作った網に追い込まれてそのことに気づかない。(中略)こんなに大きな夢のなかにいるのに、わざわざ透明なカプセルの中に自ら入って目隠しをしてヘッドフォンをしてぶつぶつしゃべってるみたいに見えた。

日々が停滞しているように感じるとき。思ったように物事を前に進められないとき。つい焦って解決策を求め、自分を責めたり、環境や他者に原因を求めたりしまう。でも私たちが生きている世界の事象の全てに、明快な説明をつけられるわけではない。

『人はなぜ物語を求めるのか』(千野帽子)によると、人間には、因果応報という物語の型が根付いているそうだ。悪いできごとが起きると、こうなった原因が必ずあるはずだと考えて理由を見つけ出し、頭の中でストーリーをつなげて、納得しようとする。でもそれは、本当の原因かどうかはわからない。

上手くいかないことに向き合うことには、一定の価値がある。でも、原因を求めてすぐに答えを出すことだけが、唯一の解決策ではないはずだ。小説のなかで幹に祖父がアドバイスをするように、自分の感覚を信じて流れにのってみて、違うと思えば、巻き返せばいい。思い切って手放したり、進む角度を変えることのほうが、人生というスパンで見れば良い選択かもしれない。

教習所で”みきわめ”に3回落ちた後、「基本からやり直したほうがいいですね」と言われたわたしだけれど、自分の能力や状況をジャッジするのをやめて、きっとこの先いいことが待っているという予感を信じてみたら、免許をとったあとは知りたいことが次々に増えた。カスタムショップの取材やオーナーさんの撮影も楽しみになった。一年後には大型免許をとり、二年後にはハーレーオーナーになった。
それでも、わたしはいったい何をしているのだろう、という思いがときどき蘇って、見通しのつかない渦に巻き込まれた。そんなときは、森のなかをひとり歩いたり、読書に没頭したり、好きなことにのめり混んだ。すると、何も答えは出ていないけれど、また自分のできる範囲でコツコツやっていこう、と思えた。

心持ちがすこし変わるだけで、朝起きてからの視界が広がり、通勤路の樹木が芽吹いたり、花が咲いていたりすることに気づけるようになった。苦しいと感じているときには見過ごしていた、日々のささやかな幸せを自分の手で抱きしめることができた。

「人生はすばらしい夢」。そう思って生きることには覚悟がいる。でも、目の前に広がるわたしの世界は一度きりのもの。だから、幹のようにきらきらとした目で見て、出会うことに賞賛をこめて、一日一日を生きる人生にしたい。

静かな池の水をかきまぜたら、奥にあるものも出てくるしまわりの空気も動く。底にあったドロドロがみんな浮かんでくるし、動いた空気の中には信じられないくらい美しいものも見つけられる。それが落ち着いてまた水が澄んだ状態になったとき、池は前と全く同じ状態ではない。良くなったのでも悪くなったのでもない。ただ動いただけ。

日常にはきっと、いいことも悪いことも同じぐらいある。そのどこを切り取って、どう見るかは、自分次第。未来の視界の彩度は、自分でコントロールしていけるはずだ。

決意めいた、そんなとりとめのない思いを、自宅で窓越しに雨の音を聞いていたら、書き留めておきたくなりました。もう春ですね。

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