レッスンでは結果が出ない理由【語学コーチングの本質】

語学コーチングというと、いまいちそれが何なのかわからない人も多いのではないだろうか。

源流にあるライザップのような「結果にコミット」というのは一つの軸であり、そのように捉えて間違いない。

ただ、ではどうやって「結果にコミット」するのか?

これは、一般的な語学スクールの「レッスン式」のアプローチとの比較で考えると、コーチングの本質がわかる。

(一般的な語学コーチングというより、私が考える語学コーチングに限定するが。ただ、何も考えずただ流行で「コーチング」といっているスクールが多すぎる気もする)

では、結果を出すためになぜコーチングというアプローチが、レッスン式と比べてどう優れているのか?を考察し、語学コーチングの本質をあぶり出していきたい。

語学はスポーツに近いことを理解しよう

まず、言語学習について理解する必要がある。

これについては以前記事に書いたが、語学はスポーツに似ている。

外国語を身につけること(身につける対象)は、「知識ではなく、技術である」ということを理解すべき。

これはエピステーメーとテクネーという概念で考えるとわかりやすい。

立花隆さんが著書『東大生はバカになったか 知的亡国論+現代教養論』(文春文庫)の中でこの説明を丁寧にしている。

エピステーメーとは、ラテン語のスキエンティアにあたり、これが英語のサイエンスの語源で、つまり知識である。

テクネーとは、技術であり、テクノロジーの語源。いわゆるわれわれが思うテクノロジーとは違い、日本語的には技(わざ)といったほうがいいかもしれない、という。(私としては、「技術」でいいと思うが)

知識は頭で覚えるものであるのに対して、テクネーは講義だけでは教えられなく実習が必要。実習を繰り返すことで身体に覚え込ませる。身体で覚えたことは頭で覚える知識とは、脳の別の記憶システムを使って脳の別の場所にしまいこまれる。

頭で覚える知識は、陳述記憶といって内容を言語化することが可能な記憶。身体で覚えるテクネーは、非陳述記憶でそのエッセンス部分は言語化することができない。これは手続き記憶ともいい、身体各部をどのような手順で動かしていくと、目的のパフォーマンスがうまく実現されるかという、身体各部のプログラムのような形で身体が覚える(実際は、身体そのものが覚えるわけではなく身体プログラムを管理する小脳コンピュータにしまいこまれると考えられる)

いったん身体が覚えてしまうと、いちいち細かな動作を意識せずにほとんど自動化された形でスラスラと発現される一連の動作である。

自転車の乗り方、自動車の運転、ピアノの演奏、スポーツの動作、料理など。テクネーについても言語化することが可能な部分がありさまざまな領域のテクネーについて解説書がある。

自動車のドライビングテクニック、ピアノ演奏術、各種スポーツの技、上手な料理のコツ。しかしそういう本をいくら読んでも畳の上の水練と同じでテクネーに熟達できるわけではない。テクネーの本体部分は言語化不可能でその技の伝承も実践を通じてするしかない。

そして、外国語習得はテクネーであるのだ。

筋トレでいうなら、バーベルや器具を使ってトレーニングしている時間が何より重要だし、水泳でいうなら、水の中で身体を動かすことが必要不可欠だ。教室で、筋トレ理論を学んだり、プールサイドで泳ぎ方に関する本を読んでいても前には進まない。

語学においては、音読やリピーティングなど意味行為を行っているときなどトレーニングをしている時間が学習の中心にあるべきなのである。

レッスン式の語学はなぜダメか

私は以前、こちらの記事で、レッスン式がなぜよくないかについていくつかの観点で書いた。

改めて、レッスンがよくない理由は一言でいうなら、レッスン中の時間が言語学習全体の「中心」だという幻想を作ってしまうことだ。

レッスン中が最大の学習効果のある時間だと勘違いすると、本来あるべき「トレーニングを中心に考える」ということができなくなってしまう。さらに、それができないような学習体制を作ってしまっている。

前述のように、語学は、エピステーメー的な理論学習ではなく、テクネーのためのトレーニングが絶対的に必要なのである。

レッスン式だと、その先生と生徒というような関係で行われる「授業時間」なるものが、「主役」だと勘違いされる。

しかし、実際に大事なのは、「トレーニング」の時間であり、授業時間中では、その時間は少ししかないし、何ならほとんどないこともある。

レッスンと呼ばれる教え手と学習者の貴重な時間は、学習戦略や学習方法(フォーム)の確認など、学習の中心であるトレーニングをより効果的にするための準備に使いたい。

もちろん、できる人は言われなくても自分でトレーニングをしっかりやるので、レッスン式だろうが、どんな環境でもできるので、例外はあるが、傾向としてレッスン式では結果が出にくい。

コーチングの本質

私が考えるコーチングの本質は、(理論ではなく)トレーニングを中心にした学習体制を整え、トレーニングの効果を最大化させるというところにある。

一般的にコーチングは次のように理解されるかもしれない。セッションでのコミュニケーションを通じて、自発的な行動を促すもの。モチベーションを管理し、主体的に行動させる、というようなこと。

これは、私にとっても部分的に正しいが、上述のようなトレーニング中心の考え方を伝えることで、それを実現するものであり、「心」を操作しようというような神がかり的なサポートではない。

このような「やる気」や「モチベーション」については、私も取り組んでいるが、人間の心のような複雑系極まりないものを操作できると思うことは前提にしてはいけないと思う。

私は現象学という哲学の分野を修士課程で学んだが、心についての理論など、正直その根拠がナイーブ過ぎて、確証的な効果を約束することはできない。

仮にできたとしても相当な理論体系のもとに、相当なコミュニケーション能力でそれを実行できる人間は、時給100万円並になってしまうだろう。

ほんの一言で心のあり方が変わってしまうし、中国語学習以外の日常生活での出来事で重大な影響があるのに、それを教え手がどこまで正確に把握できるか?さらにそれをシュミレーションできる理論が本当にあるのか?そういうことを気軽に、自社サービスの説明に使いたくはない。

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以上、今回はなぜレッスン式では効果がでないのか?という観点から、コーチングの本質を浮き彫りにした。



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