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自由意志はないのではなく、ある

自由意志はないという言説をたまに見かけるが、そもそも自由意志という概念があることをしっかり理解したほうがいい。

私が今から右手を挙げるとして、実はそのコンマ何秒か前に脳内でそういう指令が出ていたとかいうのは、本質ではない。

なぜ「自由意志」という概念が存在しているのか?つまり、多くの人が自由意志といって共通了解する何かしらの意味があるのか?

それは、我々が自分の意志を起点にして、いくつかの選択肢の中から1つを選び取り、他を排除したという経験を何度もしているからだ。

実は、その選択も、遡れば過去の経験に由来するといわれるかもしれないが、本質はそこではない。

本質は、自分の中で、複数の選択肢を吟味し、その後1つを選び取ったというクオリア的な質的な意識体験にある。

そういう経験は沢山あるだろう。カレーかハンバーグどちらを食べるかとか些細なことから、就職先を3社のうちから選ぶとか、ある人に告白するかどうかとか、そういう大きな選択をしていれば、必ず、「別も選べた」という確信がある。そういう経験が、「自由意志」の概念を支えている。

というより、そいう経験があるから「自由意志」という概念が市民権を得たのであり、逆ではない。

あらゆる概念は、自分たちの実体験に根を持つ。

そして、その主観的な体験というのは疑うようなものではなく、あらゆる言説や判断の根拠である。

「机の上にコップがある」というような命題も、その真偽を確定する最終根拠はある個人の主観である。

われわれには、自由意志がある。

だから、仮にある犯罪者がその犯罪行為の理由を、悲惨な「生まれ」によるものだと決めたとしても、その犯罪者が犯罪行為を避けるという選択肢を充分吟味できたのであれば、責任はその犯罪者が引き受けるべきだ。

でも、それ以外の選択肢を選ぶという現実性がなければ、それはその人の責任とはいえなくなってくる。


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