文化盗用"cultural appropriation"について

 こんばんは。Sagishiです。

 今日はあまり気が進みませんが、文化盗用"cultural appropriation"について話していこうと思います。あまりにも軽率な意見をもつひとが多すぎるので、自分自身の考えをまとめるためにも書こうと考えました。



1 文化盗用とは

 文化盗用"cultural appropriation"というのは、わたしの理解では、他国・他文化のnation(共同体)あるいはunity(団結)の核心的アイデンティティを無理解・無遠慮に侵害・毀損し、それらを装飾的に扱っていると見做せるもの、またそれに準ずる態度・言動を意味します。

 よくdreadlocks(ドレッドヘア)について議論になります。その文化圏に属さないひとは、「dreadlocksは単なる髪型だ」「エジプト人も同じ髪型をしていた」などと簡単に言いますが、それは実際には違います。

 この問題というのは、核心にはnationあるいはunityの問題があります。日本人のわたしたちが、アメリカのカリフォルニアロールを「寿司」だと言われたとき、あるいは韓国が「茶道」の起源主張をしてきたとき、腹を立てるのはなぜか、というのと同じところに問題は根ざしています。

 ひとによってはカリフォルニアロールを許容するひともいるかも知れませんが、マヨネーズたっぷりの”Sushi burger"をみて、正気でいられる日本人が多数派だとはわたしは思いません。ましてそれがオリジナルなスタイルだと主張されでもしたら、絶句し、反発するでしょう。

 なぜそう思うのかといえば、「寿司」や「茶道」といったものが日本人にとっての文化的な『象徴』だからです。

 そういうものを毀損されると怒るひとがいるのは当然の話であり、dreadlocksについても、それに象徴的な意味合いあるいは団結を感じるひとたち、そのcommunity=unityに属しているひとからすれば、無遠慮に扱われれば反発があるのは当然です。

 それにたいして「dreadlocksは単なる髪型だ」「エジプト人も同じ髪型をしている」などと掣肘を加えるのは全く意味のない、見当外れな意見です。日本の寿司にたいして、「寿司は米だ。米はインドでも食べられている」「寿司の起源は東南アジアであり、寿司は日本の伝統ではない」と批判をすることが的を射ている主張だと思いますか? という話です。


2 日本と沖縄、アイヌ

 わたしはこの問題の専門では全くありませんが、それでも日本人が沖縄やアイヌにたいして、特別な配慮をしていることを理解しています。今日においては、それはとても自然な所作として実現していますが、存在しないというものではないです。

 もし沖縄出身でもないひとが、沖縄の伝統衣装を身に着けて、沖縄の言葉を用いて、「これは俺のスタイルだ」と居直っていたら、「いやいや…」と多くの日本人は違和感を覚えるでしょう。

 なぜそういう感覚になるのでしょうか? それは沖縄やアイヌに、日本のなかでも他の地域にはないような独立した地域性・文化性があるということを、わたしたちが理解しているからです。

 そしてそれを無視するような態度に違和感を覚えるのは当然であり、まさにわたしたちは文化盗用"cultural appropriation"の態度を見極めています。

 そしてその違いを超えてでも、わたしたちは「日本人」というnationを共有しています。だから特別な配慮をする必要があるのです。そういった独立性・文化的な違い・背景を無視すると、「日本」という大枠のnationが毀損されて、対立が激化することが容易に想像できます。

 文化盗用"cultural appropriation"という用語が単に新しいだけで、その言葉がかりになかったとしても、わたしたち日本人はかねてから、自国内でも沖縄やアイヌに特別な配慮をしてきたのです。

 わたしは知らなかったですが、THE BOOM『島唄』(1992年)も、沖縄出身ではないひとが歌ったことで、相当強烈な批判をされたようですね。しかしその後のTHE BOOMの献身的態度によってでしょうか、批判はだいぶ止んだようです。もしこれが居直っていたら、とんでもないことになっていたとわたしは思います。

 スペインでもカタルーニャ州が独立しようとする機運があり、独立の可否についての住民投票が行われるなど、国家的な混乱が起きています。この原因の根底には、スペイン中央政府がカタルーニャ民族を軽視するような言動を繰り返したことにあります。

 日本でも同様のことを繰り返せば、少なくとも沖縄においては独立の機運が高まってもおかしくはないでしょう。

 文化盗用"cultural appropriation"という言葉のせいなのかは分かりませんが、この問題を非常に局所化して捉えているひとが多いです。しかし、人間が人間である以上、nationあるいはunity同士の対立というものは、これはどうやっても起こり得る普遍的な問題であり、何も特定の地域や文化、物事だけに限定されるような特別な主張ではありません。

 なぜ他文化を尊重しないといけないのか、その重要さが分からないひとには何を論じても無駄ですが、身近なものを通してみれば、多くのひとにとって文化盗用"cultural appropriation"というものが、もっとリアルなものだとよく理解できるのではないでしょうか。


3 よくある批判

 この章では、文化盗用"cultural appropriation"にたいする、よくある批判を列挙していきます。


3-1 交流と盗用の混同

日本人が洋服を着ただけでアウトになる

着物着る外人と何が違うんや

 実際に確認できた文章をおおよそそのまま持ってきましたが、この手の批判・指摘をするひとは、問題の本質を理解していないです。

 日本人(東洋人)が「洋服」を着ることが、いったいどこの国や文化を毀損するのでしょうか。その逆もしかりです。それは自然にミックスされており、だれも傷つけていませんし、わたしたちは自然に「交流」しています。素晴らしいことです。

 アメリカのタレントが、自身の下着ブランド名を「kimono」と名付けて、しかもそのブランド名の「kimono」の商標登録をしたことで強い批判を浴びたことがありますが、上記のような批判をするひとにとっては、このニュースは意味が分からないということなのでしょうか?

 このような「収奪」=「盗用」の行為と、「交流」との違いは見分けてほしいと思います。


3-2 好きだからはだめなのか?

「好きだから・クールだから」という理由で真似すること全てが悪なのか。

 こういった意見も見かけました。これは当然ですが、悪ではありません。悪だと弾劾するひともいるでしょうが、わたしはそこまでは思いません。それにこの意見をもつひとは、そもそも純粋な好意をもっているひとや、身近なひとをだれも傷つけていないひとを想定しているからです。

 おそらくですが、文化盗用批判に困惑しているようなひとの多くは「悪意のない好意なんだけど、だめなの?」という意見なのだと思います。だめではないです。

 しかし、これは当事者ではないnation、unityに属しているからこそ言える意見というのもまた真です。アジア人がdreadlocks(ドレッドヘア)をして歩くだけで、身の危険があってもおかしくない地域は存在しますし、何らかの瞬間にその純粋な好意を批判される可能性がないとはいえません。

 「リスペクトがあれば大丈夫」という主張をするひともいますが、リスペクトがあっても批判されるときはガッツリ批判されます。理不尽に感じるかもしれませんが、その姿が、ありのままの世界だとわたしは考えます。

 そもそも、他国や他文化にとって何が核心的アイデンティティなのかを、その外にいるひとが認識するのは困難です。好きだから、リスペクトしているから、という純粋さは、それじたいは素晴らしいものではあるとは思いますが、「地獄への道は善意で舗装されている」という状態になることを許容するものではないはずです。

(なお、たとい純粋な好意だったとしても、前述のkimono事件はすでに金銭的収奪といえる状況でありoutです)


3-3 リスペクトがあれば良い?

リスペクトがあれば良いと思います

 前述した話の延長です。THE BOOM『島唄』ですが、たとい敬意をもっていたとしても、批判されるときは批判されます。これは仕方のないことです。事実、THE BOOMは「本当に(沖縄音楽を)やりたいのなら沖縄に住め」という批判を受けていたようです。

 「リスペクトがあれば良いのだ」という、そんな単純な話ではないです。「土地」と「血」に刻まれたものを、敬意だけで超えられると思うのは浅はかです。

 事実、USにおいてHIPHOPは98%くらい黒人がやっているもので、白人はごく少数しかいませんし、アジア人はほぼ全くいません。白人のうちHIPHOPを聴くのは7%というデータもあります。これがどういうことなのか、よくよく考えたほうがいいとわたしは思いますよ。

 軽々しく「リスペクト」といえるひとのことを、わたしは信用しません。敬意とは、自身の言動の積み重ねでしか表現できませんし、それでも超えられないものがあるというのを理解しておくのが、謙虚な態度です。


3-4 盗用によって論

盗用によって新しい文化が育つ

 どこかで見たことがある主張ですね、全く頭痛がしてきます。

 最初の話と同じで、これは他国や他文化の「核心的アイデンティティ」が何かを分かっていないから、想像力が働いていないのでしょう。そしてそれを「収奪」しても良いという意見になるのだと思います。

 改めて書きますが、「交流」と「盗用」は全く異なるものです。

 なら、韓国の茶道起源主張を受け入れますか? あるいは最近話題の、日本のアニメがポリコレ翻訳されていることを良しとしますか? それはあり得ないでしょう。そういう話にしかなりません。それが表面化していない限りにおいてしか成立しない、「盗用によって新しい文化が育つ」という主張は、バレなきゃいいと言っているのと同じようなもので、「親告罪」であることを笠に着た居直りと同じです。


3-5 謎理論

ブラックルーツを持たない者はブラック文化を身に纏ってはならないのか。それこそ差別である。

日本人は和服だけを着て和食だけ食べて日本語だけ話してダンスは日本舞踊だけの一生を過ごせ。

 わたしには何を言っているのか意味が分かりませんが、このような発想の飛躍ができるひとが多々いるようです。中には「なら黒人は腰蓑を着ろ」ととんでもない差別発言をしているひともいて(しかも当人はそれを差別だと認識していない)、唖然としました。

 論点が何かも理解していないうえに、そもそも自分自身の主張を何を示しているのかも分かっていないので、こういった類いの主張をするひとは、相手にするだけ無駄です。


まとめ

 というわけで、文化盗用"cultural appropriation"についての記事を書いたわけですが、気が重いですね。

 直近でも、以下のような事件が起きて話題になっていますが、本当に無遠慮な主張をするひとが多すぎます。 

 良心的なひとが微に入り細に入り、無遠慮なひとたちに何とか理解してもらおうとする姿に、わたしは悲しさを感じます。

 USにおける文化盗用"cultural appropriation"というのは、多数派/少数派という観点だけでなく、経済的・歴史的・文化的・人種的な不平等・格差・差別、そういった対立が、現実に表面化されている結果であり、まずそこに現実の問題が存在しているということを直視しないといけません。

 あるいは髪という部位が、何か問題の本質を見えにくくしているのかもしれませんが、それを言うなら、彼ら彼女らにとって、dreadlocks(ドレッドヘア)というのはファッションではないです。遺伝的な髪質の問題で、ストレートヘアにしようとしてもできない、dreadlocksのほうが清潔を保てるし、メンテナンスにも優れている、という事実があります。

 たぶんそういうことを知らないひとが多いだろうし、知れば軽率に言えないでしょう。それに黒人のdreadlocksのひとが目の前にいて、「あなたの髪型はエジプト人と同じだ」などと言い放てるひとがいますか? 全く違う文化をあたかも外形だけで判断してどうこう言うことも、わたしは見識的な態度とは思いません。

 文化的・人種的なコンフリクトというのは、特定のnationやunityでしか起こり得ません。そして現に起こっている。その外部にいる東洋人が、なぜあーだこーだ言える資格があるのか、という話にしかならないです。

 そして色々な出自や立場のひとがいるので、アジア人がdreadlocksをしていても何も思わない、自由にすればいい、そんなことは当然だと思うひとも多数いると思います。0か100の話ではありません。ゆえに、軽率な決めつけをすることなく、まずはどんな主張があるのかを「知る」ことが肝要です。

 わたしはポリティカルコネクトレスの話をしているわけでは全くありませんが、良識にてらして無遠慮な言葉は控えるべきですし(上のツイートを見れば分かると思いますが、そもそも言うべき相手を間違えているひとが大多数すぎます)、せめてそこについては、もっと正常な判断力を持つべきだとわたしは思います。


詩を書くひと。押韻の研究とかをしてる。(@sagishi0) https://yasumi-sha.booth.pm/